【起承転結のかたち】

人が、何かを得ようと欲し、そのことについて執著しているとき、かれの歩む道は起承転結のかたちをとることになる。 なぜならば、起承転結のかたちこそ、人々(衆生)の心の機能をそのままに反映した典型的な執著とその作用のプロセスの現れなのであり、それは欲心(欲望・欲求)にもとづいて起こり、愛し好むものにもとづいて起こり、また快・不快と称するものにもとづいて起こるものであり、その結末はただ人に喜怒哀楽をもたらすだけで、人をして覚りの境地に至らしめるものでは無いもの、ニルヴァーナには役立たないものであると知られるからである。

この起承転結のかたちは、人々(衆生)の思考パターンとして現れ、また経験の整理された記憶として、さらには眠りについて見る夢のストーリーの基本形式としてさえ現れるものである。 覚りの境地に至ることを目指しながらも、この起承転結のかたちにとらわれた人は、迷妄に陥ってただ世間をうろつくことになる。 かれの学びは、逸れてよろめくことにならざるを得ない。

実のところ、人が覚りの境地に至る道筋においては、起承転結のかたちをとるものは何一つ存在しない。 それは因果を超えて起こることであり、人の心(の機構および機能)を超えて起こることであると知られるからである。

したがって、もし人が何かのことを思い立ち、その行為を為し、それを為し終わって、そこに起承転結のかたちを見たとするならば、それは覚りに至る道ではなく、迷妄に陥っただけのことであり、自らが自らの心に翻弄された結果に過ぎないのであると知らなければならない。 たといそれによっていかなる実りを見ようとも、いかに微妙なるものを見ようとも、この上ない感動を味わったとしても、霊妙なる余韻を残したとしても、その他のさまざまに世間において語られるすぐれた結果を得たとしても、もしもそこに起承転結のかたちを見たならば、それは虚妄なるものであると知らなければならないのである。

こころある人は、起承転結のかたちを伴うあらゆることがらについて、決して執著を起こしてはならない。 覚りは、最初から最後まで、起承転結のかたちを超えて体得されるものであるからである。