【習慣を離れる利益】

それがどのようなものであろうと、ひとが日々の生活の中ですでに習慣化したことがらを、自らの意志によってやめようと決意し実際にもそれをやめることができたならば、かれはきわめて困難なことを為し遂げた勇者なのである。

そして、習慣化したことは何であろうと、結局はこだわりであり執著であると自らさとってそれを捨て去ろうと考える人は、聡明な、明知ある人なのだと言ってよい。

さらに、我が身に染みついた忌むべきあるいは親しむべきさまざまな習慣や、厭うべきあるいは愛すべき種々の癖を自ら気づくたびに捨て去って、しかもそのことによって心の動揺をきたすことがなく、また虚無感にとらわれることもない人は、世間に汚れることのない人、愛執にうち勝った賢者であると知られるであろう。

そのようなすぐれた賢者が、他の人の振る舞いを見知って、かれらの習慣や癖のなかにひそむ煩悩の矢、すなわち執著のもとのものを如実に見たならば、かれは衆生のありさまをありのままに見たのであり、老いと死とを超えた人、すでに発心した聖者なのである。

覚りの境地に至ることを目指す人は、ことわりを知っていかなる習慣にも安住することなく、種々さまざまな癖に翻弄されることなく、それらをよく御し、超克し、それらにまつわる憂いをも捨て去って、為すべきことを為し遂げるべきである。

それを為し遂げたとき、世のならいが利益のない、まったくの虚妄であったと知ることになるのである。 そして、本来ひとがならうべき「それ」が何であるかを自ら知ることになるのである。 それが、法(ダルマ)と名づけられるものなのである。