【供養と功徳】

世間においても、何かを人づてに聞き知ってそれを他の人に正しく伝えることができたとき、その人はそのことについて確かに理解しそれを身につけたのだと言われる。

それと同様に、出世間のことがらについても、それを聞き知ってその真意を自らの明知によってさとり、たとえその一部であっても他の人に伝えることができたとするならば、かれは諸仏の智慧をこころに理解したと認めてよい。 かれは、過去・現在・未来の仏達を供養したことになり、かれ自身確かな功徳を積んだのである。

そのような功徳を積んだ人が、伝承によらず、眼のあたりに示される法(ダルマ)を知ったならばかれはすみやかに円かなやすらぎに至るであろう。

仏への真実の供養は、このように為されるべきである。 なんとなれば、それがそのように為されたとき、それはかれの大いなる功徳のよすがとなるからであり、かれがまさしく功徳を積むことそれ自体が諸仏の願いそのものであるからである。


[補足説明]
法華経−方便品第二および釈尊の原始仏典にはには、次の記述が見られる。

○ ── 諸仏が世に出られる事は、遥かに遠くして遇う事は難しい。 たとい世に出られたとしても、この教えを説かれるという事がまた難しい。 無量無数劫を経ても、この教えを聞く事は難しい。 よくこの教えを聴く者達もまた得がたい。 たとえばすべての人々が愛し楽しみ、天人や人間の珍重する優曇華(ウドゥン・バラ)の花が、長い間にたった一度だけ咲き出る様なものである。 教えを聞いて歓喜し、一言でもそれを語るなら、それだけで既に一切の三世の仏を供養した事になる。 この様な人が甚だまれであること、優曇華の花以上である。 ──

○ 火への供養は祭祀のうちで最上のものである。 サーヴィトリー[讃歌]はヴェーダの詩句のうちで最上のものである。 王は人間のうちでは最上の者である。 大洋は、諸河川のうちで最上のものである。 月は、諸々の星のうちで最上のものである。 太陽は、輝くもののうちで最上のものである。 修行僧の集いは、功徳を望んで供養を行なう人々にとって最上のものである。(スッタニパータ)

○ 百年のあいだ、月々千回ずつ祭祀(まつり)を営む人がいて、またその人が自己を修養した人を一瞬間でも供養するならば、その供養することのほうが、百年祭祀を営むよりもすぐれている。 百年のあいだ、林の中で祭祀の火につかえる人がいて、またその人が自己を修養した人を一瞬間でも供養するならば、その供養することのほうが、百年祭祀を営むよりもすぐれている。 功徳を得ようとして、ひとがこの世で一年間神をまつり犠牲をささげ、あるいは火にささげ物をしても、その全部をあわせても、(真正なるまつりの功徳の)四分の一にも及ばない。 行ないの正しい人々を尊ぶことのほうがすぐれている。(ダンマパダ)