【執著を離れかし】

人は、覚りの境地に至ることを目指すのだという執着があってこそ道を歩み始めるのである。 そして、それが執着にもとづいて始められたことであるとしても、心構え正しくありさえすれば、かれの歩み始めたその道は必ずや真実に至る正しい道へと結びついて、まさしく仏道を歩むことになる。 なんとなれば、人は実にそのようにしてこそ<慈悲>や<平等>を知ろうとする(正しい)熱望を起こし得るものなのであり、しかし最終的には、そのようにして確立し完成した<平等心>によって、覚りを目指すのだという執着心を含めたあらゆる執着心を捨て去るに至るからである。

しかしながら、もし人が、覚りの境地に至ることを目指すのだという執着に執着し、手段が目的化するなどして、そのことについて執著を起こすに至ったならば、そのときに限り、かれがそのままにおいて覚りの境地に至ることはあり得ないこととなる。 かれの歩む道は、手段を選ばないものとなるからである。

それゆえに、すべてを知る人は語るのである。 すなわち、最終的には捨て去ることができる執着心こそが覚りを目指す人が抱くに相応しい執着心であり、最後まで捨て去ることのできない執着心、すなわち執著を起こすに至る執着心は、正しからざるもの、不実なるものなのであると。 実に、これらは似て非なるものであるからである。

たとえば、字を書くことが上手になりたいと願う人があったとき、練習によって望み通りに字が上手くなる人もいれば、練習するほどに癖字になってしまうだけの人もあるであろう。 似て非なるそれぞれの結果を生じたおおもとの違いを何かに求めるとするならば、それはかれらそれぞれが歩んだ道そのものの違いに求めるべきではなく、それぞれの人の「心構えの違い」にこそ求めざるを得ないであろう。 人が覚りの境地に至るかどうかも、同様である。 それゆえに、もろもろの覚者は、「それは各自の心構えの違いにのみ帰せられるのだ」と語るのである。

覚りの道は微妙であり、人々(衆生)の思惟・考研・分別・念慮・努力の範囲を超えている。 もし人が、覚りの境地を自らの身に体現することを欲するのであるならば、『それは執著を離れたところにこそ見いだされ得るのである』と知って、自ら起こした執着を最後には捨て去らねばならない。

こころある人は、正しく捨て去ることにこそ利益(りやく)と功徳とがあるのだと知って、執著を離れかし。