【間違いを畏れることなく】

もし人が、ことに臨んで、これは間違いかも知れないけれども自らのこころに恥じないために,如何なる誰をも悲しませないために、それをそのように為さねばならぬと考え、迷い無く、きっぱりと実行したとするならば、その行為の結末が自責や後悔の念を生じるようなものになることはあり得ない。

そして、人がこころに恥じない行為を為す中で、

○ 行為する前にはこころ楽しく、行為している最中には心を清浄ならしめ、行為を為しおわってこころによろこばしく、そののちも後悔の念に苛まれることがない行為

を為し遂げたとき、かれは、種々の汚れと執著のよりどころ(名称と形態(nama-rupa))を断ち、欲心と怒心と害心という三種の(善からぬ)想いを止滅せしめ、欲望の対象が生起することなくついに智慧を得て解脱し、一切の妄想分別から解放されるに至ると期待され得るのである。

けだし、世間における4種の想いを超えて(正しく)想い為し、外的に、および内的に感受する一切についてよろこぶことのない聡明なる人は、ことに臨んで心を働かせることなく、情に溺れることなく、自他の心を安寧ならしめ、相互の影響を排し、よく気をつけて、かくの如き完全なる行為の存在とその為し難き様を自らの明知によって知り及び、種々さまざまな行為についての真偽・虚実をこころに見極め、しかも他の人をいかようにも非難すること無く、争いを捨て、自らは迷い無く、執著を絶ち切り、智慧を生じ(あるいは智慧を得て)、虚妄ならざる安穏(=ニルヴァーナ)に至るのであるからである。

その一方で、もし人が、ことに臨んで自らの行為が正しいのだと想い為し、こころに問うことなく、利他を忘れ、心穏やかならずにして、それはそれしか無いのだと頑迷に決め込み、偏見を構え、聞く耳をもたず、実際には迷いを拭い去っていないのに闇雲にそれを実行したとするならば、その行為の結末は必ずや自責と後悔の念にかられたものにならざるを得ないのである。 かかる者は、種々の汚れと塵の巣窟たる執著のよりどころ(名称と形態(nama-rupa))を心に抱き離さず、欲心と怒心と害心という三種の想いそれぞれにとらわれ、欲望の対象が生起しては滅する生滅の相のうちにあり、智慧を生じるよすがも無く、迷妄と妄執とに翻弄され、不信と疑惑とにこころを覆われて、世間の恐怖(=苦悩)にくり返し苛まれ、安穏の境地(ニルヴァーナ)から遠く隔たっているのである。

もし愚者が自ら愚者だと思うならばかれは賢者なのであり、実際には愚者なのに自らは賢者だと思い為す人こそが、まさにそれゆえに愚者であると知られる。

それゆえに、覚りの境地に至ることを目指す人は、行為についてのこの理を知って、慢心と独善と疑惑とに陥ることなく、心を謙虚ならしめ、自らが自らの心を矯めて直ぐなる心を確立し、為すべきことと為すべからざることとを知り、しかしことに臨んでは臆することなく、敢えて行うときには自らのこころに問うて見いだしたいつわりなきその行為をこそきっぱりと為し、自己嫌悪と人間不信とを二つながらに払拭して心を安寧に帰し、『為し終えてのち後悔することのないその行為』を今まさに為さんとすべきなのである。

明知の人は、間違いを畏れることなく、為すべきことを為さんとする、心健き人であれかし。