【知って語られる】

如来(および<道の人>)が何かを語るとき、それらはすべて知って語られるのである。 なぜならば、如来(および<道の人>)は、知らないことを口にすることはないからである。 それはたとえば、親が子供に躾の言葉を発するとき、親は自ら知ってその言葉を発し、知りもしないことを躾と称して口にすることはないようなものである。 そこには、曖昧なものが入り込む余地は本質的にないのである。 また、如来(および<道の人>)が語ることは、人々をやすらぎにいざない導く真実の言葉であって、それゆえにそこに不毛な争論が起こることはあり得ないこととなる。

ところで、未だ覚りの境地に至っていない人が、自ら思惟・考研した何かについて語るとき、また(外的に、あるいは内的に)語りつつ自ら思考停止を行なうとき、あるいはまたいわゆる啓示などで得た何某かのことを他の人に述べるとき、さらにまた思いつきの論(=虚論・戯論)を口にするとき、かれらは実は知らずに語っているのである。 聡明な人は、かれらのそれぞれの言葉の中には拭いきれない曖昧さが残っており、聞いてのち後味が悪く、つまるところそれは思索の紛糺(ふんきゅう)を増すだけの論であることを見い出すであろう。 そして、このような偏見の論および妄見の論としては、具体的には次のようなものが挙げられる。

 唯物論(断滅論・断見)、快楽論(非業論)、霊魂不滅論(常見)、運命論(決定論)、懐疑論(不可知論)、苦行論(戒律主義)

さて、世間には、覚りの境地に至ることに関するものであると称する種々の論があり、種々の説があり、種々の念い(観念,概念,想念,思念)があり、そして種々さまざまに知見された客観的事実や主観的識見が横たわっている。 しかしながら、それらは実のところどれをとっても人が覚りの境地に至ることについて役立つ論では無い。 それらは、結局は迷妄と妄執の所産に過ぎないと知られることになる。

それゆえに、円かなやすらぎ(=ニルヴァーナ)を求める人は、世間においてさまざまなことに触れ、種々の論説、雑多な念い、善く悪しく知見されたどのような事実に接しようとも、それらに決して心を汚されてはならない。 また、何を見聞きしようとも、決して心を汚されない人が、迷妄と妄執の所産たる外道の説から離れるのである。 こころある人は、何よりも先ず自らの心構えを正しくたもち、頑迷さを断ち切り、聞く耳をもち、ものを見る眼を養い、諸説の虚実可否を能く弁別して、気をつけて世間をわたるべきである。 明知の人は、まさしくそのようにして一切のこだわりを離れ、諸の執著を捨て、偏見を超え、明知によって世の真実をさとり、さとり終わって、まごうことなき覚りの境地に至るのであるからである。 そして、それを確かに為し遂げたとき、それはかつてもろもろの如来が語ったことと即応していることをかれ自身如実に知ることになるのである。


[補足説明]
慧能(ブッダ)の六祖壇教には、次の言葉(=偈)が見られます。

『菩提、本より樹無し、明鏡も亦た台無し。 仏性はつねに清浄なり、いずくにか塵埃有らん。』

『心はこれ菩提樹、身は明鏡の台為(た)り。 明鏡は本より清浄なり、いずくにか塵埃に染まん。』