【覚者が語る真実】

もろもろの覚者は、人々に向かって(縁に応じて顕れるところの)あらゆる方便の説を述べて、かれらそれぞれがそれぞれに覚りの境地に近づき至ることをつねに願っている。(<諸仏の誓願>と名づく) しかしながら、覚者が、人々に向かって人の覚りの真実を語るとき、それは極限られたものにならざるを得ない。 それは、つまるところ次のような言葉に集約されることになる。

○ 覚りの境地(=ニルヴァーナ)は、虚妄ならざるものである。
○ 人は、それをこころから望むならば、誰でも覚りの境地に至り得る筈であり、そのことについての特別な障碍も、また特別な素質も認められない。
○ 人は、自らにのみ依拠し、しかも自らを超えて現れる「それ(=真如)」を自ら見いだすべきである。
○ すべては因縁によっているが、それはいわゆる運命や宿命と称するものにはあたらない。
○ 衆生を見いだした人は、必ず仏を見いだす。
○ 解脱は、人の身に確かに起こることである。

ところで、覚りの境地に至ることを目指す人は、世に飛び交うさまざまな(方便の説を含めた)諸説を耳にして、それらを自らの修行の参考にするとしても、最終的にはそれら諸説へのこだわりを(正しく)捨て去るべきである。 たとえ、耳にしたその言説が覚者(=如来)が語ったいつわりなき理法の言葉であるとしても、最終的にはそれそのものへのこだわりを離れ、理法へのこだわりを離れるのだという根底のこだわりをも捨て去らねばならない。 人が、まさしくそのようにして世のあらゆる言説についてのこだわりを離れ、理法の言葉そのままに世に出現する法(ダルマ)の現れを見るならば、かれはただそれによって覚りの因縁を生じ、すみやかに不滅の安穏(=ニルヴァーナ)へと至るのである。 そして、人の身にそれがまさしく体現されたとき、かれは真実がそのようにしか語ることが出来ない性質のものであり、それゆえにもろもろの覚者はそれをそのように(つまり真実を真実のままに)語るのであると知るのである。

聡明な人は、まごうことなき理法の言葉を耳にして、世の諸説へのこだわりを離れかし。 また、それにも増して、人の覚りについての一切の疑惑と執著とを共に離れ、人は真実に覚りの境地に至り得るのであるということを領解せよ。