【真実ならざる断定と虚妄ならざる縁起】

世人は、世の中において感受される物質的な存在についての生起と消滅の様子を見て(形而上学的な)断定を下し、世間のうちに迷っている。 もし人が、種々の断定にこだわるならば、かれがそのままの状態において覚りの境地に至ることはとてもあり得ないこととなる。 なんとなれば、一切世間において観察されるあらゆる生滅現象とそれによって世人が抱く種々の断定は、すべてが、人をして覚りの境地に至らしめることについての真実(すなわち縁起の法)に似て非なるものであるからである。

しかし、それだけであるならば、人は一体どのようにして真実を知り得るのであろうか? もろもろの如来は、人は覚り以前においても真実を微かなりとも覚知しその真相を察知することができると説くのであるが...。

この尤もな問いには、次のように答えなければならない。

・ 人は、自らの明知によって真実を覚知するのである。
・ 人は、自ら疑惑を超えて、やすらぎ(=ニルヴァーナ)の虚妄ならざることを察知するのである。
・ 人が、まさしくそのようにして真実を真実に知ることそれ自体が法(ダルマ)の現れに他ならない。

たとえば、錯覚図形を見て錯覚に陥った人が、その錯覚図形が錯覚図形に他ならないと知って、その錯覚図形によってまさしく錯覚陥っていたと正しく認知するようなものである。(もちろん、錯覚そのものはそのまま認識され続けるのではあるが、かれにとってそれが錯覚であることは了知されるところのものとなったのである。)

こころある人は、未だ真実の真相を知らぬといえども、このように聞き知った上はそれがそうであるのだと領解せよ。 根本の疑惑を去って正しからざる種々の断定を捨て、虚妄ならざる縁起によって超え難き妄執を超えよ。 そのとき、縁起の法は我が身に体現されてその真実が明らかとなるのである。