【不退転のもの】

この世には、あらゆる種類と形式をともなった無数の変じるものが存在している。 それどころか、この世ものはすべてが変じるものであると認めてよい。 しかしながら、人が覚りの境地に至る道筋におけるすべてのことはその根底において変じない性質のものを源泉(ルーツ)としており、それゆえにそれは『不退転のもの』を確立せしめる根拠を生じるのであると知られるのである。

人が覚りの境地にひとしく向かうことについては、「それ」と呼ぶべきそれがあると(覚知後に後づけで)認められる一定の流れが確かに存在している。 それは世の中の流れとは逆向きであり、世の流れに逆らって上流に向かうものである。 それはすべての人々の心の深奥に確かに存在しており、すでにその(上流に向かう)流れにしたがっている人のその流れを逆転させることは誰にも為し得ない。 その流れを逆転することが出来ないことは、如来が如来としてこの世に存在することがまさしくそれを裏打ちしている。

それは、たとえば有情のものがすべからく、環境に順応しつつ、あるいはまたあたかも抗うかのように示すおりおりの成長の過程におけるさまざまな相と、その相の変化(転移)が、決して無秩序で脈絡のないものには見えず、それは単なる環境要因の影響を超えた一種固有の方向性を持っていると一般に認められ、また折にふれてそれぞれの相が一旦変化(転移)してしまうと、それが逆戻りすることは無いと観察されることに似ている。

けだし、何であるにせよ、逆転の相(=元の木阿弥になること)を示すものは法(ダルマ)に適ったことでは無く、法(ダルマ)に適うことが逆転の相を示すことはあり得ない。 逆転の相を示すものは、つくられたもの、生じたものであり、世人の迷妄と妄執によってもたらされた生滅の相(物質的なものとして認知される生成と消滅の相)に過ぎないのである。

それゆえに、覚りの境地に至ることを目指す人は、それを目指して行ったあらゆる行為とその顛末についてよく気をつけて観察し、不退転の相を示すものこそが道に適った行為であるのだと理解すべきである。 逆に、それが如何に尤もらしく、説得性を有し、納得がいき、有益であると思えたとしても、時間によらず、努力によらず、それが結局のところ逆転の相を示すものであったならば、それは理法に適わない道(外道)であるのだと知らなければならない。

ことわりをこころに知る明知の人は、逆転することのない不滅のやすらぎを自らの身に体現せよ。