【聞く耳】

信じ難いことであろうが、この世はすべてが顛倒した世界である。 それゆえに、人々(衆生)には汚いものが綺麗に見え、善からぬことが善きことに見え、毒が薬に見え、そして正しからざるものが正しいものに見えてしまうのである。 そしてそれは、人々(衆生)が自らの心に欲望と嫌悪と飢渇と妄執を抱き、それが自分の心だと思い為していることによって起こることである。 したがって、人々(衆生)が世の中を正しく見ること(=正見)は根本的なところでさまたげられており、それ実現することは絶望的なほど困難なこととなっている。

しかしながら、もし人が善知識が発する善知識(法の句)を聞き及び、聞く耳があって、直き心を以てそれをこころに理解するならば、世の中を正しく見る眼を生じるであろう。 かれは、顛倒した世界を顛倒した世界であると正しく見ることを得、人々(衆生)を歓喜させているところの喜怒哀楽の楽味(味著)と過患とを知り、自ら出離の心を生じ、(因縁によって)ついに離貪して、覚りの境地に至るのである。

そのさまは、たとえば人が錯覚図形を見たときにそれを錯覚であると正しく知る過程と似ている。 すなわち、錯覚図形は、それを見ただけではそれが錯覚であると気づくことは不可能である。 なんとなれば、それが錯覚というものの本質であるからである。 しかしながら、もし人が、それが実は錯覚図形なのだと(その錯覚の真実を知る人から)前もって聞き及び、聞いたそのことが正しい見解なのであると正しく信じるならば、かれには聞く耳があると言える。 かれは、それが錯覚図形なのだと正しく見ようとする心を生じるであろう。 それにともない、錯覚を錯覚だと見る心の眼を生じ、錯覚を錯覚だと正しく理解しようと工夫する動機を生じ、さまざまな方法によってそれが確かに錯覚なのだと認知することを得て、ついにその言葉の真偽と知覚の虚実の真実とをさとり、錯覚図形の真実とその全貌を知るに至るのである。

それゆえに、聡明な人は、世間に飛び交うさまざまな言説を耳にしても、よく気をつけてそのそれぞれのいわんとするところを知ろうとすべきである。 人は、他でもない自らの聞く耳によって法の句を聞き、その根底の真意を領解して、世の顛倒をさとり、人と世の真実を知り究めて、ついに顛倒した世間を脱するのであるからである。

円かなやすらぎ(=ニルヴァーナ)に至ることを願い求める人は、たとえ聴覚器官としての耳を無くすことになろうとも、聞く耳だけは決して無くしてはならない。


[補足説明]
法華経−方便品第二には次の記述が見られる。

── 諸仏が世に出られる事は、遥かに遠くして遇う事は難しい。たとい世に出られたとしても、この教えを説かれるという事がまた難しい。 無量無数劫を経ても、この教えを聞く事は難しい。 よくこの教えを聴く者達もまた得がたい。 例えばすべての人々が愛し楽しみ、天人や人間の珍重する優曇華(ウドゥン.バラ)の花が、長い間にたった一度だけ咲き出る様なものである。 教えを聞いて歓喜し、一言でもそれを語るなら、それだけで既に一切の三世の仏を供養した事になる。 この様な人が甚だまれであること、優曇華の花以上である。 ──