【すぐれた行為】

そのことを本人が理解していようが、いまいが、それを認知していようが、いまいが、世人は、行為を為す前には心に憂いを抱き、行為している最中には苦を甘受し、行為を為しおわってのち悲しみと悩みと後悔の念に苛まれているのである。

ところで、実に、尊敬さるべき人、明知ある人は、ことに臨んですぐれた行為を為し、それゆえにかれは『すぐれた人』と呼ばれ称される。 かれは、名称と形態(nama-rupa)にもとづいて起こる如何なる心をも働かせること無く、無心に、無念で、無相を示現しつつ、次の如くに行為するのである。

○ 行為する前にはこころ楽しく、行為している最中には心を清浄ならしめ、行為を為しおわってこころによろこばしく、そののちも後悔の念に苛まれることがない

そして、かれは、このように日々を送るなかで、種々の汚れと執著のよりどころ(名称と形態(nama-rupa))を断ち切り、ついに智慧を得て解脱し、欲心と怒心と害心という三種の想いを止滅せしめ、欲望の対象が生起することなく、一切の妄想分別から解放されるに至るのである。

こころある人は、このすぐれた行為をこそ為し遂げよ。


[補足説明]
金剛般若経には、次の記述があります。

○ そこばくの国土の中のあらゆる衆生の若干種の心を、如来は悉く知る。 何を以ての故に。 如来は、もろもろの心を説きて、皆非心となせばなり。 これを名づけて心となす。 ゆえはいかに。 須菩提よ、過去心も不可得、現在心も不可得、未来心も不可得なればなり。(金剛般若経)

つまり、過去、現在、未来のすべてにおいて、あるいはそのいずれかにおいて、人々(衆生)は、名称と形態(nama-rupa)にもとづく心を働かせるゆえに、悲苦憂悩を生じているのだと(知る人には:如来には)知られるのです。