【経典に縁るということ】

人は、いかなる経典を読誦し思い思いに習学したとても、そのことによって直接に覚りの境地に至ることはあり得ない。 しかしながら、もし人が経典を読誦して、その読誦した経典を我がものとするならば、かれは経典を縁として覚りの境地に近づき至るのである。

すなわち、もし人が、自らに縁があると信じるところの(紙に書かれ)文字で記された経典を、読誦し、能く習学するならば、かれがその経典に書かれていることと同じ事態に遭遇したとき、かれはその完全な解決策を(紙に書かれ)文字で記されたその経典に依って得て、心を安んじることができるであろう。 それは、一定の利益(りやく)と功徳を得たのであると認められることがらである。

そしてまた、人が自らに縁があると信じるところの(紙に書かれ)文字で記された経典を、読誦し、能く習学して、以てそれを我がものとしたならば、かれが経典のどこにも記されていない、それどころか世に存する万巻の書物の内容やさまざまな経験話のどれとも適合しない、かれ自身生まれて初めて遭遇する<一大事>に出会ったとき、かれはその真実の答えを見い出すことができると期待されるのである。 けだし、かれはその解決策を(紙に書かれ)文字で記された経典に依って得ることを敢えて諦め、いかようにも文字で記されていないこころの深奥に受持したその経典に依って見い出すからであり、かれ自身それをまさしくそのように為し得たならば、かれはついに諸仏の智慧を知ったのである。 かれは、時を経ず、ただちに覚りの境地に至るであろう。 それは、経典に縁ってもたらされる利益(りやく)と功徳の最高のことがらである。

実にこれらのことが、こころある人が経典を信じ、読み、理解し、受持し、しかもそれらを超えて最上の利益(りやく)と無上の功徳とを得るありさまの全貌である。 聡明な人は、経典を読誦して、枝葉末節はいざ知らず、経典の真髄をこそ我がものとする人であれ。 それでこそ諸の経典は、経典としての役目を果たしたと言えるからである。