【観音および観自在と名づけられるもの】

その言葉の出所はともかくとして、その人にとってすでに外的なものとして意識されたその言葉を、それが自らの内言であるとして読んで、しかも決して迷妄に陥ったのでは無く、その言葉の真意を知ろうとして自らが自らのこころに問うことを総じて『観』と名づける。

そして、その観の対象となった言葉が明らかに外的なものであるときには観音(を為す)と名づけ、その観の対象となった言葉がまさしく内的なものであるときには観自在(を為す)と名づけるのである。

それゆえに、観音・観自在いずれにせよ、世間に飛び交う欠点のない、あるいは欠点のある言説を耳にして、その言説の全体、あるいはその一部の言葉について、明にあるいは暗に、それを自らの明知によって心に留め、以てその言葉の(根底の)真意を知ろうとする人は、いずれも観を為す真理の探究者であると認められる。

そのような真理の探究者が、聡明であって、こだわりを離れ、よく気をつけていて、世間において稀有に発せられる法の句(=善知識)を聞き及ぶならば、かれは外的なものを縁とする覚りの因縁によってついに覚りの境地に至る。 また、そのような真理の探究者が、聡明であって、こだわりを離れ、よく気をつけていて、自ら法(=仏智)を想起するならば、かれは内的なものを縁とする覚りの因縁によってついに覚りの境地に至ることになる。

外的にであろうと、内的にであろうと、人が『観』を機縁として覚りの境地に至り得るのは間違いないことである。


[追記]
人が、自分の心の中にあって、もどかしく、言葉にしたいけれども言葉にならない「それ」を生じたとき、その人にとって「それ」が内的なものとして意識されたのだと称する。 また、人が心の中にあって、もどかしく、言葉にしたいけれども言葉にならない「それ」を生じ、しかしそれを(不完全ながらも敢えて)何とか意味の通じる言葉にしたとき、その人は「それ」を外的なものとして意識したのだと称するのである。

ところで、ある人が、自らの心の深奥に確かに秘めていると(こころに)感じた人としての本心(真如)をすでに内的に意識していて、ことに臨んで言葉にしたいけれども言葉にならないでいた「それ(真如)」を、ふと外的に聞き及んだ見事に説かれた言葉がまさに「それ(真如)」を言いあてた我が意を得たりの言葉であると確信するか、あるいはかつて聞いた見事に説かれた言葉に縁って「それ(真如)」を表す独自の言葉を創出するに至ったとき、その人は見事に説かれた(真如の)言葉を確かに、外的に理解したのだと言えるのである。