【善悪とその超越】

 『善を生み出す根本のものには二つある。 一つは変わるもの、もう一つは不変のものである。 しかしながら、(人を目覚めさせる)仏としての本性は、変と不変、善と不善を超越している。』『(それゆえに、真の善なるものを求めるのであるならば)心の中の悪を捨て去るばかりでなく善からも離れるべきである。 そのようにして、ついに善悪など相対的なものすべてを超越したとき、何事にも動じない真の心が培われるのだ。』

善悪の真実と、それを超越するありようは、この六祖慧能(ブッダ)の言葉に簡潔に集約されている。 やすらぎを求める人は、まさにこのように、善悪、真偽、正邪、多寡、優劣、深浅、段階、虚実などの分別を生じるあらゆる想念から出離しなければならないからである。 それを為し遂げたとき、人は世間の一切のことがらに煩わされず、何ものにもけしかけられない、迷いを離れ、疑惑を去った、真なる不動の心を我がものとするのである。

その機縁のもとのものたる仏の法身は、世間の想念に汚されない無念の境界において生起し、世の一切の特相を離れた無相なるものとして世に顕れる。 それは、束縛を脱した無住なるこころに宿るものであり、観を完成してわずかなりとも無住なるこころを発現した人に、無住なるこころの真実を完全に知らしめるのである。

こころある、聡明な人は、真実のことわりをこころに知って、超えがたい善悪の軛をついに超越せよ。 人は、まさしくそのようにして苦悩(妄執)を超えるのであるからである。