【知識を超えて知られるそれ】

人は、それが錯覚図形だと知っていても、その錯覚それ自体から脱れることができない。 それと同様に、人々(衆生)はこのすべてが顛倒した世の出来事に接して、たとえそれが顛倒したものだと知っていたとしても、その知識によって顛倒それ自体から脱れることはできないのである。

しかしながら、この世はすべてが顛倒しているのだいう真実を聞き知って、かれが聡明であるならば、知識を超えて知られるそれ(=学識)によって、人々(衆生)がまさしく顛倒した世の中を生きていて、それゆえに種々さまざまな苦悩に喘いでいるのに違いないと領解することはできるであろう。

明知の人(賢者)は、ことわりを知って、すべてが顛倒したこの世間の何ものに触れてもこころを汚されることなく、自らにのみ依拠し、正しい信念とあり得べき信仰とを確立して、疑惑を超え、人と世の真実を識り明らめて、すみやかに覚りの境地に至るべきである。

それを為し遂げたとき、かれは解脱し、さとり終わって、自分ならざる何ものにも煩わされることのない(そのようなことが無くなった)、世間の顛倒を顛倒であると正しく見る目を生じた自分自身を発見するのである。

それは知識を超えて知られるものであると知って、こころある人は、知識にもとづいて生じる世の顛倒を自らの学識によって超越せよ。


[補足説明]
釈尊は、原始経典において次のように述べています。

何びとも他人を欺いてはならない。 たといどこにあっても他人を軽んじてはならない。 悩まそうとして怒りの想いをいだいて互いに他人に苦痛を与えることを望んではならない。 あたかも、母が已が独り子を命を賭けて護るように、そのように一切の生きとし生れるものどもに対しても、無量の(慈しみの)意(こころ)を起こすべし。 また全世界に対して無量の慈しみの意を起こすべし。 上に、下に、また横に、障害なく怨みなく敵意なき(慈しみを行なうべし)。 立ちつつも、歩みつつも、坐しつつも、臥しつつも、眠らないでいる限りは、この(慈しみの)心づかいをしっかりとたもて。 この世では、この状態を崇高な境地と呼ぶ。(スッタニパータ)

○ 祀りを行え。 祀り実行者はあらゆる場合に心を清からしめよ。 祀り実行者の専心することは祀りである。 かれはここに安立して邪悪を捨てる。 かれは貪欲を離れ、憎悪を制し、無量の慈しみの心を起こして、日夜つねに怠らず、無量の(慈しみの)心をあらゆる方角にみなぎらせる。(スッタニパータ)

○ 「われは知る。 われは見る。 これはそのとおりである」という見解によって清浄になることができる、と(偏見をいだく)或る人々は理解している。 たといかれがそれをそのように見たのだとしても、それが(普遍の正しい見解を求める)そなたにとって、何の用があるだろう。 かれらは、正しい道を踏みはずして、他人によって清浄となると説いているのである。 (欲心を以て道を見出そうとする人は、)名称と形態とを見るのである。 また見てはそれらを(常住または安楽であると)認めるであろう。 見たい人は、多かれ少かれ、それらを(そのように)見たらよいだろう。 真理に達した人々は、(たとい自分自身の経験としてそれをそのように見たとしても、)それ(を見ること)によって清浄になるとは説かず、またそれを見ないことによって清浄になるとも説かないからである。 (「われは知る」「われは見る」ということに)執著して論ずる人は、みずから構えた偏見を尊重しているので、かれを導くことは容易ではない。 自分の依拠することがらのみ適正であると説き、そのことがらに(のみ)清浄(となる道)を認める論者は、(自分に依拠したと称しながら実は偏見に固執して)そのように(一方的に)見たのである。 何を見ようとも、(真の)バラモンは正しく知って、妄想分別におもむかない。 見解に流されず、知識にもなずまない。 かれは凡俗のたてる諸々の見解を知って、心にとどめない。──他の人々はそれに執著しているのだが。── 聖者はこの世で諸々の束縛を捨て去って、眼前に論争が起こったときにも、党派にくみすることがない。 かれは不安な人々のうちにあっても安らけく、泰然として、執することがない。──他の人々はそれに執著しているのだが。── 聖者は過去の汚れを捨てて、新しい汚れをつくることなく、欲におもむかず、執著して論ずることもない。 また、(明智ある)賢者は諸々の偏見を離脱して、世の中に汚されることなく、自分を責めることもない。 見たり、学んだり、考えたりしたどんなことについてでも、賢者は一切の事物に対して敵対することがない。 かれは(いかなる事態に臨んでも)負担をはなれて解放されている。 かれははからいを為すことなく、快楽に耽ることなく、求めることもない。(スッタニパータ)

○ つねによく気をつけ、自我に固執する見解をうち破って、世界を空なりと観ぜよ。 そうすれば(慈悲心を確立して汚れなき者となり)死を乗り超えることができるであろう。 このように世界を観ずる人を、<死の王>は、見ることがない。(スッタニパータ)

○ 汚れた見解をあらかじめ設け、つくりなし、偏重して、自分のうちにのみ勝れた実りがあると見る人は、ゆらぐものにたよる平安に執著しているのである。 諸々の事物に関する固執(はこれこれのものであると)確かに知って、自己の見解に対する執著を超越することは、容易ではない。 故に人はそれらの(偏執の)住居のうちにあって、ものごとを斥け、またこれを執る。 邪悪を掃い除いた人は、世の中のどこにいても、さまざまな生存に対してあらかじめいだいた偏見が存在しない。 邪悪を掃い除いた人は、いつわりと驕慢とを捨て去っているが、どうして(輪廻に)赴くであろうか? かれはもはやたより近づくものがないのである。 諸々の事物に関してたより近づく人は、あれこれの議論(誹り、噂さ)を受ける。 (偏見や執著に)たより近づくことのない人を、どの言いがかりによって、どのように呼び得るであろうか? かれは執することもなく、捨てることもない。 かれはこの世にありながら一切の偏見を掃い去っているのである。(スッタニパータ)

○ 世間では、人は諸々の見解のうちで勝れているとみなす見解を「最上のもの」であると考えて、それよりも他の見解はすべて「つまらないものである」と説く。 それ故にかれは諸々の論争を超えることがない。 かれ(=世間の思想家)は、見たこと・学んだこと・戒律や道徳・思索したことについて、自分の奉じていることのうちにのみすぐれた実りを見、そこで、それだけに執著して、それ以外の他のものをすべてつまらぬものであると見なす。 ひとが何か或ものに依拠して「その他のものはつまらぬものである」と見なすならば、それは実にこだわりである、と<真実に達した人々>は語る。 それこそが真実の真相であるのだから、修行者は見たこと・学んだこと・思索したこと、または戒律や道徳にこだわってはならない。 智慧に関しても、戒律や道徳に関しても、世間において偏見をかまえてはならない。 自分を他人と「等しい」と示すことなく、他人より「劣っている」とか、或いは「勝れている」とか考えてはならない。 <真実に達した人々>は、すでに得た(見解)[先入見]を捨て去って執著することなく、学識に関しても特に依拠することをしない。 人々は(種々異なった見解に)分かれているが、かれは実に党派に盲従せず、いかなる見解をもそのままに信ずることがない。 かれはここで、両極端に対し、種々の生存に対し、この世についても、来世についても、願うことがない。 諸々の事物に関して断定を下して得た固執の住居(家)は、かれには何も存在しないのである。 かれはこの世において、見たこと、学んだこと、あるいは思索したことに関して、微塵ほどの妄想をも構えていない。 いかなる偏見をも執することのないそのバラモンを、この世においてどうして妄想分別させることができるであろうか? <真実に達した人々>は、妄想分別をなすことなく、さまざまに聞き知った諸の異説の(いずれか一つの偏見を)特に重んずるということもない。 かれらは、諸々の教義のいずれかをも受け入れることもない。 (真の)バラモンは戒律や道徳をたもつ人であるが、それらによって導かれるということはない。 このような人は、彼岸に達していて、もはや(この世には)還ってこない。(スッタニパータ)