【過失】

もし人が、他人の過ちを見聞きすることによって覚りの境地に至り得るのであるならばそうするがよいであろう。 しかしながら、人は、他人の過失ではなく自らの行為を見てその過ち(勘違い)に(気づきでは無くして)気づいたとき、やすらぎに至る確かな道を見い出すのである。 そして、究極のやすらぎ(=ニルヴァーナ)に至った人は、他人の過ちが目に入ることは無くなり、それにもまして自分の行為について後悔の念を生じるような過ちを犯すことが無くなるのである。

それゆえに、ことわりを知ってやすらぎを目指す人は、他人であれ、自分であれ、人が為す何某かの行為について過失を見たとしてもそれそのものにこだわること無く、煩悶を制し、怒りを静め、想いを落ちつけ、無量の慈しみのこころをこそ起こして目の前のできごとに関わるべきである。

やすらぎを求めるこころある人は、他の人の過失を見聞きしてもそれによって自ら過失を犯してはならない。


[補足説明]
過失無きこと。 それは、後悔することの無い(後悔する必要の無い)行為のことだと言い換えてもよいであろう。 そして、一切について後悔することの無い心を得ることは、平等心を確立することに他ならない。

[補足説明(2)]
六祖慧能ブッダは、過失について次のように述べている。

○ ── 本当に動かぬ境地に至った人は、どんな人の過失も目に入ることは無いし、そのようにしていられることが即ち本性の動かぬことの証である。 一方、自分を見失ったものは、自分の身を投じて善き行いを為すことが無いのに、口を開けばすぐに他人の善し悪しを問うて、まさにそのことによって仏道に自ら背を向けてしまう結果となる。 それゆえ、心を見つめ、こころの清浄を見守るのは、かえって道をさまたげる原因であると言わなければならないのである。 今、私は君たちに断言しておく。 およそわが法門で、坐禅とは何かというなら、この法門では何のさまたげもなく善く行為することを言うのである。 すなわち、外にはあらゆる存在に対して妄念の起こらぬのが坐であり、本性に目覚めて乱れぬのを禅と為すのである。 ──(六祖壇教)