【直き心】

自らの心が弱いと感じている人は、心が強くなることを望み、強い心こそがやすらぎをもたらすのだと信じることであろう。

しかしながら、心を強くすることによってその望みを達成することはとてもできない。 たとえ、神の如き強い心を手に入れたとしても、その望みを叶えることはできないのである。 なぜならば、やすらぎは、強い心では無く、直き心によってもたらされるものであるからである。

それゆえに、やすらぎを願い欲する人は、心の優劣を競う根本の妄想を捨て去り、心を直くすることをこそ望むべきである。 しかしながら、それは決して独りよがりのものであってはならない。 それでは、直き心とは言えないからである。 ただ、自ら心を矯めて心をととのえ、想いを落ちつけて、よく気をつけて日々を過ごす人が、ついに最も柔和にしてしかも揺るぎなき最強のこころを身につけるに至るのである。

直き心をもつ人には、覚りの方角を指し示す時々の羅針盤さえもいらない。 なんとなれば、かれは決して道を逸れることがないからである。 そのようにして、こころある人は、世の難路を平らかに歩んで、ついに不滅のやすらぎ(=ニルヴァーナ)に至るのである。


[補足説明]
維摩経では、直き心について次のように述べています。

● ── 直き心はすなわち菩薩の浄土である。 菩薩が仏になったときに、へつらわない衆生がやって来てその国に生まれるであろう。 (中略) このように菩薩はその直き心をおこしたのに随って、その行いをおこし、その行いをおこしたのに随って深い願いをおこし、その深い願いをおこしたのに随って意(こころ)をととのえ、意(こころ)をととのえたのに随って説かれたとおりに行い、説かれたとおりに行ずるのに随って功徳を廻向し、その廻向するのに随って方便あり、その方便がおこるのに随って衆生を完成し、衆生を完成するのに随って、その仏国土が浄らかになる。 その仏国土が浄らかになるのに随って、説法が浄らかになる。 その説法が浄らかになるのに随って、その智慧が浄らかになる。 その智慧が浄らかになるのに随ってその心が浄らかになる。 その心が浄らかになるのに随って一切の功徳が浄らかになる。 この故にもしも菩薩が浄土を得ようと欲したならば、その心を浄くすべきである。 その心が浄くなるのに随って、その仏国土が浄らかになる。 ──