【学びの心】

それが何を目指してのことであろうと、正しい学びの心を持たなければ、努力を重ね犠牲を払ったとしても目的を達成することはとても出来ない。 正しい学びの心を持たない者は、やるほどに悪い癖がつくだけとなるからである。 かれの心は混乱し、想いは散乱し、確固たる行為を為すことができずに迷うのである。 そして、ことに臨んでは気が動転してしまい望ましい結果を出すことができない。 すなわち、かれが長い時間をかけ、精魂傾けた努力によって得た(と思い込んでいる)何某かの知見が(実は)いざというときには何の役にも立たないことを思い知らされるのである。 それどころか、それらは手枷足枷となってかれの自由を奪い、憂いと煩いと苦悩の伏線と化してしまう。

その一方で、正しい学びの心を持つ人は、目的に向けて行った種々さまざまな努力が時々に応じて無駄なく望みを達成する力(その正しい流れの源動力)として働くことを知る。 そして、一見して目的とは無関係に思える努力さえもがかれの望みを達成する糧となるのである。 かれは、いかなる犠牲も払うことがなく、損なわれるものも失われるものもない。 かれは、そのようにしてついに望みを超えた究極の望みを達成するであろう。

ところで、正しい学びの心を持たない人の努力はなぜ望みどおりに成就しないのであろうか? その理由は、かれがそれぞれの局面において意識する時々の望みが、かれの本当の気持ち(=<本性>)と合致しないことによるものである。 このため、かれのあらゆる努力は空回りして周りと軋轢を起こすこととなり、心をすり減らすだけとなる。 あるいはまた心が沈んでしまって、学びの継続にさえ支障をきたすこととなる。 かれは、自ら作り為した歓喜と悲哀とに束縛・翻弄されており、埒のあかない堂々巡りを繰り返していることを知らない。 かれには、疑惑と、不信と、迷いと、嫌悪とが影のようにつきまとい、種々の憂いを生じ、栄えがなく、不吉なことが順次に迫り来ることになる。 そうして、かれは、ついに望みを達成することなく老死にあってくずおれるのである。

それゆえに、円かなやすらぎを目指す人は、何にもまして正しい学びの心を持つことを心掛け、正しい学びの心を我がものとして世間を遍歴すべきである。 それがそのように為されたとき、かれの学びの心はまさしくかれによって正しく学ばれたと言えるのである。