【経を転じる】

覚りの境地に至ることを望んでいても、経典に対する信に欠ける人は道を迷ってしまう。 かれは、経典に転ぜられているからである。 もちろん、経典は、読んで学んで転じる(=こころに実践する)ものである。

ところで、世間における技能・技術の修得においてさえ「定石は憶えて忘れるべきもの」といわれる。 それと同じく、覚りの境地を目指すことにおいても、「経典は学び、そして忘れるべきものである」と言わねばならない。 心構え正しく、経典に綴られた仏の真意をこころに理解して、仏がいわんとするその第一義を身につけようとする決意をかためたとき、かれはまさしく経を転じる人になったのである。 しかし、心構え正しからざれば、仏の真意を理解することはとてもできないであろう。 仏の第一義を身につけることなどとてもおぼつかないこととなる。

こころある人は、経を転じるべきであって決して経に転じられてはならない。 自らの明知によって経典の真意をこころに領解し、経典に記された真実の教えを真実のままに体現せよ。 諸仏・世尊は、そのことを願って経を誦出したのであるからである。


[補足説明]
中国の禅の六祖-慧能ブッダは、六祖壇教[法達の参門]において次のように述べている。

── こころに行じれば法華経を転じることが出来るが、こころが立ち止まると逆に法華経の方が心を転じてしまう。 心が正常であれば法華経を転じることが出来るが、心が邪であると法華経が心を転じてしまう。 仏の知見を開くと法華経を転じることが出来るが、衆生の知見(人智)を開くと法華経に転ぜられてしまうことになる。 慧能は言う。 努めて、法(ダルマ)に依って修行すべきである。 そして、そのように行うことこそが経を転じることに他ならない。 ──