【在家であろうとも】

人が今、在家の生活を勤しんでいるとしても、かれはそのままの状況において覚りの境地に至り得る。

なぜならば、極めて希ではあるものの、仕事の中に於いて、あるいは(仕事を持つ人が)仕事を離れたところに於いて、さらには仕事を離れているのでも無く、かつ仕事を離れていないのでも無いところに於いても、人は善知識が発する法の句を聞くことがあるからである。

したがって、もし人が、それらのような在家の生活圏内に於いて発せられる法の句を聞いて、それを(真実に)理解するならば、かれは次の二つのいずれかの果報を得ることになる。

(1) 発心を起こす
(2) (第一種の、あるいは少なくとも第二種の)覚りの境地に至る

それゆえに、覚りの境地に至ることを目指す人は、世間でいうところの(いわば形式的な)在家・出家ということにこだわることなく、具体的な行動を起こせな いでいる自らを卑下せず、あるいは(誰かにあてられて)卑屈になることなく、極身近なところによく気をつけて、諸仏が一瞬の化身仏(化身)として世間に現 れ出る様を目の当たりにすることを得て、その真実の意味を(こころに)理解し、速やかに覚りの境地に至るべきである。

けだし、覚りの境地に至る道は、それを目指すそれぞれの人の極身近に存在しており、たとえ在家であろうとも、その道が閉ざされることはないのである。

こころある人は、ことわりをこころに知って、出家・在家という人生の道の形式にこだわってはならない。