【こだわり】

こだわりは執著の現れに他ならない。 ただそれが好きであるというだけで、こだわりを生じるわけではないからである。 こだわりの裏には必ず嫌悪が隠れている。

執著は、欲望に基づいて起こるものである。 欲望は感官の接触によって生起し、感官の接触は人が心に名称と形態(nama-rupa)を有しているという事実によって生じている。 人は、こだわりゆえに自らの目を眩ませ、結果的に覚りの境地に至る正しい道を見い出せないでいる。

こだわりは、詰まるところ人が自分ならざるものに依拠しているために現れ出るのである。 したがって、人が正しく自らに依拠することを得たならばあらゆるこだわりは消滅する。

こだわっている人は、哀れである。 こだわっている人は、本当に大事なことを大事だと思わず、本当に大事なことに出会ってもその意味を理解せず、この世において稀有に耳にする最上の言葉を聞いてもそれが法の句(=諸仏の智慧)であることを知ることはとてもできないからである。

もちろん、人は覚りの境地に至ることを真摯に目指すのだというつねなる思いを抱くべきであり、それが正しい〈熱望〉である。 しかし、かと言って特定の何かを大事だと考えるようでは覚りは遠いこととなる。 なぜならば、覚りの境地に至った人は一切についてこだわりが無く、特定の何かをつかまえてそれがこの上もなく大事なことであるなどと言うことは無いからである。

さて、人が何かにこだわる様は、たとえば未だ自転車に乗れない人が自分の自転車に補助輪を装着し、悪戦苦闘しつつ、何某か自己流のテクニックをものにしようとして励んでいる状況に似ている。 仮に、そのような人に向かって、すでに自転車を乗りこなしている人が本来自転車には補助輪など要らないということを説明したとしてもかれはそれを信じることはできないであろう。 自転車は速度を出すほどに自然と安定する性質のものなのだと教えたとしても、それを理解することはできないであろう。 それにも増してそもそも補助輪を装着したままで如何なる技能を得たとしてもそれは自転車を(本当の意味で正しく)乗りこなしたことにはならないのだということを指摘したとしても、補助輪の装着にこだわる人がそのアドバイスに従うことはおそらく容易ではない。 かれは、そもそも自らの意志で装着した補助輪が絶対的なものであるということにこだわっているからである。 しかし、かれは、自分自身のこだわりに縛られて自転車を正しく乗りこなすことが出来なくなっていることに気がつかない。 かれが自転車を正しく乗りこなすようになるためには、「先ずは補助輪にこだわることを止めるべきだ」と指摘してくれる人の言葉に耳を傾けるところから始めなければならないのであるが、しかし聞く耳を持つ人もまた少ない。

それと同様に、覚りの境地に至ることを目指す人は、それまでの人生において自ら抱くに至ったあらゆるこだわりをすっかりと捨て去らなければならない。 そして、その上で、人のあり得べき本来の姿について真実をを教えてくれる善き友、すなわち<善知識>を自ら見い出さなければならないのである。 もしも善知識に出会ったならば、かれが発する真実の言葉(=法の句)に耳を傾け、その真意をこころに理解しようとつとめるべきである。

こだわりの消滅は、人が覚りの境地に至る以前に起こることであるが、それは人が外的に、あるいは内的に感受するあらゆることについて次のように見ることによってもたらされる。

○ ありのままに見るのではなく、誤って見るのではなく、見ないのではなく、見て見ぬ振りをするのでもない。

また、縁有って接する人と次のようにかかわるべきである。

○ 自分を他の人とひき比べて、すぐれているとも、劣っているとも、まして等しいとも考えてはならない。

こころある人は、こだわりを捨て去れよ。 それは、人が世において捨て去るべきもののうちでも大きなものであるからである。