【普遍妥当なる道】

もし、私(如来)が知ったこの道以外の方法によって、人が覚りの境地に至り、不滅のニルヴァーナに達し得るとするならば、それでは人が真実の道以外の方法によっても覚りの境地に至ることができるということになってしまうであろう。 しかしながら、それはあり得ないことである。 それが絶対にあり得ないということが普遍妥当なことであり、しかもその一方で如来が知ったその道こそが人が覚りの境地に間違いなく至る道であるのだと断言する普遍妥当性の根拠は、如来がその道によって至った覚りの境地を常に体現し、またそれを世に示現しているということに尽きるのである。

ところで、世間において真理ならざる道を説き、覚りの境地を自らの身に体現することが無く、それを世間に示現することも無い諸々の宗教家や哲学者、法学者、神学者達は、それぞれの経緯で自ら抱くに至った(虚妄なる)見解を普遍妥当なものであると想像し、見なしているに過ぎない。 そして、それらが普遍妥当性を欠いていることは、それらのいずれもが実は普遍妥当性を持たないことを他ならぬ本人が、そしてまた世間一般の人がついには気づき理解するいう事実によって、後づけで、否定的に証明されることになるのである。

一方、如来が知り、つねに体現し、世にあまねく示現するところのニルヴァーナは、一切と争わない境地であり、如来が知ったその道をひとしく歩むことによって、誰もがニルヴァーナに至るという普遍的事実によって、その普遍妥当性は(個々に)証明され、最終的にはその(如来が知った)道こそが仏道と名づけられる普遍妥当性を完備した教えのすべてに他ならないのであると世間においても諒解されることになるのである。 そしてこのことは、釈尊以来の歴史の事実が裏付けていることであると認められよう。

もろもろの如来が知った、覚りの境地に至るその道とは何であるか。 それはすなわち、

 『人は一切の争いを捨て去ることによってのみ一切の争いを終滅させた安穏に達し得る』

という真実である。 これこそが、人が苦悩を滅し、不滅の安穏(=ニルヴァーナ)に至る普遍妥当なる道に他ならない。

それゆえに、覚りの境地に至ることを目指す人は、普遍妥当性について先験的に抱いている虚妄なる見解(=偏見)を捨て去って、覚りの境地に至る一なる道を歩み行きて、自らの身に虚妄ならざる不滅の安穏(=ニルヴァーナ)を体現し、またそれを世にあまねく示現して、その普遍妥当性を自他に証すべきなのである。

まさしくそのようにして覚りの境地に至る普遍妥当なる道を歩んだ人は、ついに覚りの境地に至って、次のように言うのである。

 「法(ダルマ)が顕わになった」 と。

これが、いつの世も、誰にとってもひとしく起こることが、普遍妥当なる道の実在を証しているのである。