【五濁・偏見ある人】

法華経(妙法蓮華経)では、方便品第二において、人々(衆生)が覚りの境地に向かう正しい心構えを持つことを困難にしている原因を「五濁」と名づけ、次のように述べています。


*** 和訳経典から引用

{前を略}

舎利弗よ、諸仏は五濁の悪世に出現される。 五濁とは、長い時間という濁り(劫濁)、本能に基づく心の動揺という濁り(煩悩濁)、生けるものという濁り(衆生濁)、偏った見方という濁り(見濁)、命という濁り(命濁)などである。 舎利弗よ、長い時間という濁りのある乱れた時には、生ける者達のけがれは重く、邪険で貪欲であり、嫉妬心深く、諸々の不善の根ばかりを植えているから、諸仏は方便力によって、唯一の仏の立場ではあるがそれを分別して三つに説かれる。 舎利弗よ、もし私の弟子の中に、自分で自分の事を、尊敬さるべき人(阿羅漢)であると思ったり、独りで悟った人(辟支仏)であると思ったりする者がいて、諸仏はただ菩薩だけを教化されるのであるという事を聞こうとせず、また知らなかったりしたら、この者は仏の弟子ではなく、尊敬さるべき人でもなく、独りで悟った人でもないのだ。 また、舎利弗よ、この諸々の比丘や比丘尼の中で、自分で自分の事を、既に尊敬さるべき人となったとか、これが最後の生であるとか、究極の平安に入っているとか思いこんで、この上ない正しい悟りを求める気持がない様であったら、この者どもは皆、高慢な人間であると知れ。それは何故かというと、真実に尊敬さるべき人となっている比丘がこの教えを信じないという道理がないからである。

{後略}

*** 引用おわり


また、釈尊の原始経典では、人々(衆生)が正しい覚りの境地に向かう心構えを持つことができない様を「偏見ある人」と名づけ、例えばスッタニパータにおいて次のように述べています。

*** 引用(ブッダのことば;スッタニパータ 中村元訳 岩波文庫 青301−1 ISBN4ー00−333011−0)

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 清浄についての八つの詩句
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「最上で無病の、清らかな人をわたくしは見る。人が全く清らかになるのは見解による」と、このように考えることを最上であると知って、清らかなことを観ずる人は、(見解を、最上の境地に達し得る)智慧であると理解する。

{しかしながら、}もしも人が見解によって清らかになり得るのであるならば、あるいはまた人が知識によって苦しみを捨て得るのであるならば、それは煩悩にとらわれている人が(正しい道以外の)他の方法によっても清められることになるであろう。 {それゆえに、}このように語る人を「偏見ある人」と呼ぶ。

(真の)バラモンは、(正しい道の)ほかには、見解・伝承の学問・戒律・道徳・思想のうちのどれによっても清らかになるとは説かない。かれは禍福に汚されることなく、自我を捨て、この世において(禍福の因を)つくることがない。

前の(師など)を捨てて後の(師など)にたより、煩悩の動揺に従っている人々は、執著をのり超えることがない。かれらは、とらえては、また捨てる。猿が枝をとらえて、また放つようなものである。

みずから誓戒をたもつ人は、思いに耽って、種々雑多なことをしようとする。しかし智慧ゆたかな人は、ヴェーダ[実践的認識を指す]によって知り、真理を理解して、種々雑多なことをしようとしない。

かれは一切の事物について、見たり学んだり思索したことを制し、支配している。このように観じ、覆われることなしにふるまう人を、この世でどうして妄想分別させることができようか。

かれははからいをなすことなく、(何物かを)特に重んずることもなく、「これこそ究極の清らかなことだ」と語ることもない。結ばれた執著のきずなをすて去って、世間の何ものについても願望を起すことがない。

(真の)バラモンは、(煩悩の)範囲をのり超えていてる。かれが何ものかを知りあるいは見ても、執著することがない。かれは欲を貪ることなく、また離欲を貪ることもない。かれは(この世ではこれが最上のものである)と固執することもない。


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 最上についての八つの詩句
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世間では、人は諸々の見解のうちで勝れているとみなす見解を「最上のも」のであると考えて、それよりも他の見解はすべて「つまらないものである」と説く。それ故にかれは諸々の論争を超えることがない。

かれ(=世間の思想家)は、見たこと・学んだこと・戒律や道徳・思索したことについて、自分の奉じていることのうちのみすぐれた実りを見、そこで、それだけに執著して、それ以外の他のものをすべてつまらぬものであると見なす。

ひとが何か或ものに依拠して「その他のものはつまらぬものである」と見なすならば、それは実にこだわりである、と<真実に達した人々>は語る。それが故に修行者は、見たこと・学んだこと・思索したこと、または戒律や道徳にこだわってはならない。

智慧に関しても、戒律や道徳に関しても、世間において偏見をかまえてはならない。自分を他人と「等しい」と示すことなく、他人より「劣っている」とか、或いは「勝れている」とか考えてはならない。

かれは、すでに得た(見解)[先入見]を捨て去って執著することなく、学識に関しても特に依拠することをしない。人々は(種々異なった見解に)分かれているが、かれは実に党派に盲従せず、いかなる見解をもそのまま信ずることがない。

かれはここで、両極端に対し、種々の生存に対し、この世についても、来世についても、願うことがない。諸々の事物に関して断定を下して得た固執の住居は、かれには何も存在しない。

かれはこの世において、見たこと、学んだこと、あるいは思索したことに関して、微塵ほどの妄想をも構えていない。いかなる偏見をも執することのないそのバラモンを、この世においてどうして妄想分別させることができるであろうか?

かれらは、妄想分別をなすことなく、(いずれか一つの偏見を)特に重んずるということもない。かれらは、諸々の教義のいすれかをも受け入れることもない。バラモンは戒律や道徳によって導かれることもない。このような人は、彼岸に達して、もはや還ってこない。

*** 引用おわり

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