【如来が言葉を発するとき】

教師が生徒に向けて語る説諭の言葉が、一方向的に見えて決してそうでは無いように、また、親が我が子を躾るときに発する躾の言葉が、一方向的に見えて実はそうでは無いように、如来が衆生に向けて説示する(直説、直喩、隠喩の)理法の言葉は、一方向的に語られるのではありません。

なぜならば、もろもろの如来は、次のようなときに、かくの如く言葉を発するのであるからです。

○ それが必要だと思われるとき、誰からも影響を受けず、かつ誰にも(直接的な)影響を与えない形で言葉を発する

○ 理法を語るべきときに言葉を発し、理法を語るべきで無いときには聖なる沈黙を以て対峙する

○ 善知識を通じて善知識が世に現出する様を見たときに、必要があれば感興の言葉(ウダーナ)を発する

○ 人間を通じて世に現出する神々の声に応じて、それについての真実を語る言葉を発する

○ 人間を通じて世に現出する悪魔とその軍勢の声や叫びに応じて、それについての真理の言葉を発する

○ 仏縁に依って覚りの境地に至る人(縁覚)と出会ったときに、かれのただ一つ為されるところの真実の質問に応じて理法(ダルマ)を説く