【対比ではなくして】

平等観の一方法として行うべき基本的公案への取り組みは、言ってみれば「どうしてもいけない」を超えた「どうしてもいけなければ」という立場に立って突き詰めなければなりません。 ただし、それは「どうしてもいけない」ということを前提にしてそれを超越するのではなく、「どうしてもいけなければ」ということのみによってこの公案は解くことができるのだと知らなければならないのです。 そこには、如何なる対比要素も本来的に不要であり、(それを知る人が)基本的公案について語るときに敢えて「どうしてもいけない」ということを述べることがあるとしても、それは単に説明上の都合に過ぎないのです。

すなわち、基本的公案は、相手そのものに関しても、自分自身の認識に関しても、互いに為されるであろうそれぞれの行為に関しても、その他あらゆることについてすべてが実は「どうしてもいけなければ」の世界であることを無住なる無分別智として認知することを狙っている公案です。 したがって、基本的公案はその前提からして「どうしてもいけなければ」でなければならないのであり、この公案を解く道筋においては「どうしてもいけない」ということを考察する必要はまったく無いのです。

それは例えば、知恵の輪を解くことにおいて説明の便宜上「ねじる」「回す」「引っかける」「引き抜く」などという機械的操作の用語を用いることがあるとしても、それにもとづく具体的な機械的操作によって、あるいはそれらの組み合わせとして生じた如何なる機械的操作によっても知恵の輪が解けるものでは無いことに似ています。 知恵の輪は、それらのいわゆる機械的操作ではなくして、あくまでも知恵の輪としての操作によって解けるものであるからです。 そこに、それ以外の要素が入り込む余地は無いし、しかもそこにおいては別解さえ存在しません。

それと同様に、ある人が基本的公案を解いたとき、それが(法(ダルマ)に依って)唯一のこととして解けたのであるとかれ自身に確かに認知され、同時にそれは他の如何なるものにも依らずに単独に、無条件に、すなわち「どうしてもいけなければ」ということのみによって解けたことが諒解されるのです。

このことをさらに別のことに譬えるならば、例えばある人が旬の旨さを初めて味わったとき、その前提として通常の旨さということについての事前の理解は特に必要では無かったことを知ることに似ています。 なぜならば、旬の旨さは他の旨さとは明らかに違う鮮烈で繊細な、特有な(ユニークな)ものであり、それは通常言うところの旨さを超えた旨さであることをそれを味わった人は直ちに理解するからです。 それと同様に、基本的公案を解いたときに味わう特殊な感動は、世間的に存するあらゆる感動と明らかに違うものであり、その決定的な違い、およびそれがこの世の何ものにも依拠しない(無住なる)ものであることを、それを知った人は直ちに理解するのです。

したがって、基本的公案を解くこと、ひいては平等観を為し遂げることは、頭で考えて行うことでは無く、本人の経験、あるいは世間の経験に照らして省察すべきものでも無く、またあらゆる種類と形式を伴った哲学的見解とも無関係であり、それを解くにあたっては生まれてこの方知り得たあらゆるものを排し、およそ人間(衆生)が考え得るところの如何なるものとも対比することなく、基本的公案そのものだけに依って解かなければなりません。

ただし、その参究の過程として、「どうしてもいけない」ということを頭の隅に置いておき、そこに帰着してしまう考えは皆基本的公案の解とは違うのだと(意識して)考えつつ、それらとは違う、それらを超えた「どうしてもいけなければ」という本質的にこの世の如何なるものにも帰着しない「それ」を見い出すことを心から熱望すべきです。 そのように参究し、(正しく)熱望する究極において、聡明なる人は必ずや基本的公案を解くことができるに違いありません。