【理解力】

覚りの境地に至るこの一なる道におけることは、すべて後づけで理解される性質のものである。 それゆえに、それが仏教に関するどのようなことがらであろうと、少なくとも言葉で記述できるような何かを、発心や覚りに先んじて理解しておかなければならないということは一切ないことである。 この意味において、覚りの境地に至ることにおいて(少なくとも世間的な意味での)特別な理解力などは必要無いことであると言えるのである。

覚りの境地に至る道のそれぞれの局面においては、その人がそれまでに何を学んだかが問われるのではなく、今現在その人が何を身につけているかが問われる。 しかも、解脱は、そのような聡明な人が一旦身につけたと思い為しているいろいろなものを最終的には正しく捨て去ったところで起こることである。 それは例えば、何かを修得することにおいて、「定石(セオリー)は覚えて忘れろ!」と言われることと同様である。

ところで、覚りの境地に至る道においては「理解力は不要である」と言うと、ある人は虚無論に陥り、またある人は不可知論に陥ってしまうかも知れない。 しかしながら、覚りの境地に至ることを目指す人は、これらが極論に過ぎず、これらの極論を捨て去ったところに正しい理解を生じるのであるということを知らねばならない。 そして、ただ(諸仏の)教えを聞こうと熱望し、精励すべきである。

そのようであってこそ、覚りは人の身に体現されるのである。