【発心以前において】

未だ覚りの境地に至っていない人が、もし(正しい)発心以前に、本来発心後に行うべき(第二の)気をつけることの実践法として為すべき慈悲観、平等観あるいは基本的公案に取り組むことは、意味のない行為である。 しかしながら、それはある意味では大いに意味のある行為であるのだと言えるのである。

ここで、ある意味で意味が無いというのは、それが恋に恋するようなものであるからである。 また、ある意味では大いに意味のある行為であるというのは、それらに取り組む過程において、まさにそのことによって(真実の)発心を起こすことが期待され得るからである。

何事においても、知る人はそれに親しむ。 親しむ人はそれを好む。 好む人はそれを楽しむ。 そして、そのような楽しみの中において、遂にはそれにまつわるすべてを体得するに至るからである。 ゆえに、この意味においてのみ、この限りにおいてのみ、本来それ以後に為すべきことをそれ以前において行為することは否定されないのである。

しかしながら、恋に恋する人が本当の恋を知り難いように、覚りの境地に至る道を、覚りの境地に至るための修行の道としてその意味を見い出そうとする人は、覚りの境地に至る道から遠ざかってしまうことになりかねない。 道を歩むものはとくに留意すべきことである。

それでもなおかつ、発心以前において慈悲観、平等観に取り組もうとするのであるならば、次の心構えを持つべきである。

□ 時間の無駄を気にしないで取り組む
□ 順逆の念を離れて取り組む
□ 聞く耳をもつ
□ 決して自分を卑下しない
□ 決して人をけしかけない