【功徳と福徳】

覚りの境地に至ることは功徳を得ることであり、福徳を得ることとは区別されます。

功徳とは、覚りの境地に至ることが巧みであることを功と名づけ、素直なこころ(円かなる心)に依ってそれを達成することを徳と名づけることを言う言葉です。 一方、福徳とは、その人が為した善なる行為が、業(カルマ)というこの世の現象によって時を経て継承され、そのままに、あるいは変容し、福楽の形を以てその人の身に現れることを言います。 すなわち、福とは楽を祝福とともに生じることを福と名づけ、素直な心(思いやりの心)に依ってそれを達成することを(この場合の)徳と名づけるのです。

ここで重要なことは、福徳はただ福徳を生じる因にとどまり、福徳が功徳に変容することは無いということです。 また、それぞれの起源についても、福徳は業(カルマ)にもとづくことであり、功徳は因縁にもとづいているという決定的な違いがあります。

その違いを敢えて譬えるとするならば、福徳と功徳は旨みと風味ほどの違いがあります。 出汁をうまく重ねると、よりいっそう旨みが増すように、旨みは旨みを呼ぶものですが、旨みから直接風味を導き出すことはできません。 そして、この上ない最上の旨みといえども、人をしてその虜にするという点では風味の敵ではありません。 なぜならば、風味はその味わいを繰り返すほどに人を虜にするものであるのに対して、旨みは繰り返し味わうと飽きが来るものであるからです。

ところで、驚くべきことに、風味は味の良さからだけでなく、味の悪いもの、エグイもの、珍奇なるものからも現出し、人をその虜にします。 ここでさらに、味の善し悪しということを善・悪に譬えるならば、言ってみれば旨みとは善なるものの究極に過ぎませんが、風味は善悪を超越して現出する究極のそれであると言えるでしょう。

それと同様に、功徳は善悪を超越し、(一大事)因縁という摩訶不思議なるものを機縁として顕れる(人が作為せざる)何かだと言えるのです。 それを端的に表現することは出来ませんが、功徳によって顕現する覚りの境地は虚妄ならざるものであり、間違いなくすべての人に等しく用意されているものであるのは確かなことです。