【如来(ブッダ)が世にとどまる理由】

未だ覚りの境地に至っていない人(以下人、あるいは衆生と記す)がこの世に留まっているその理由は、簡潔に説明すれば、例えばユング心理学(分析心理学)に言うところの自らの魂(アニマ[アニムス],ゼーレ)ゆえのことであると言ってよいでしょう。 すなわち、衆生は、自らの魂に従って例えば公務員となり、商人となり、職人となり、料理人となり、工員となり、経済人となり、政治家となり、報道人となり、学者となり、教育者となり、医者となり、軍人となり、農業従事者となり、芸術家となり、役者となり、格闘家となり、音楽家となり、歌手となり、スポーツ選手となり、冒険家などになるからです。 つまり、人は、自らの魂の求めるところに従ってこの世を生きるべく、日々行為する対象物を見い出して世間を生きています。 そして、もし何らかのことがあって自らの魂と社会との関わり方のバランスを崩し、あるいは魂を喪失し、あるいはまた行為の対象を喪失した状態になれば、その人は病気になり、あるいは事故を起こし、あるいは老衰して死を迎えます。 そのとき、人は、基本的にはまったく唐突に死を迎えることになるのです。

一方、覚りの境地に至った人(以下如来と記します)は、そのような世間的にいうところの魂が無く、その代わりに覚りの境地に至った瞬間にこころに顕現した「諸仏の誓願」が見かけ上の魂として機能している存在です。 すなわち、如来は、諸仏の誓願に依って(出世間の)世を生き、諸仏の誓願にもとづく行為の対象である衆生を(ただ直接見るだけでなくこころに)見て生きているのです。

つまり、如来が現実にこの世に生きて留まっているのは、如来との関わりを求める人々(仏縁の衆生)が世にいるからであり、彼らの存在を如来自身がはっきりと感じているゆえのことです。 したがって、もしそのような人々(仏縁の衆生)がこの世から皆いなくなれば、如来もまたこの世を去ることになるでしょう。 そして、そのときには如来自身が自らがこの世で関わるべき人々が皆いなくなったことをはっきりと知ることになるでしょう。 それは結果的に、如来自身に自分の死期が近いのだというはっきりした認識を与えることでしょう。

総括するならば、如来が世に留まっているその理由は、如来としての死期がまだ到来していないからであるということに尽きるのです。 そして、これが如来が世に留まる理由のすべてであり、したがって如来は特別な目的意識をこころ抱くためにこの世に留まっているのでも、あるいはまたある種の使命感をこころに有するためにこの世に留まっているのでもないのです。