【人間関係の中にこそ】

ただの一つでも苦を正しく滅することができれば、あらゆる苦の原因がすべて滅する。 これこそが苦の縁起とその止滅のありさまであり、人の覚りの全貌である。

なお、ここで言う苦は人々(衆生)が日常的に実感する世間的な苦ではなく、本能にもとづく心の動揺という根本的な苦、すなわち煩悩苦を指している。 そして、この煩悩苦は、未だ覚りの境地に至っていない人が名称と形態(nama-rupa)を心に有し、それによって現れる心的作用を真実のこころだと(誤って)認知しているゆえに現れるものである。

ところで、煩悩は、本質的に人間関係を縁として生起するものであり、その意味において煩悩を滅するとは人間関係を正常ならしめることであると言っても過言ではない。 そして、それを身を以て実現するために人が行うべきことは、正しい観を為すことであり、そのような観の終着点とは自らの本心に(正しく、しかも気づきではなくして)気づくことがそれにあたる。 人は、まさしくそのようにして人無我を(意識することなく)知ることを得るのである。 さらに、人無我の真実を知った人が、さらに善知識が発する法の句を聞き、あるいはかつて聞いた法の句を想い起こして、その法の句の真実を正しく理解することを得たとき、ついに法無我を知るに至るのである。 この法無我の真実を知った境地こそが、覚りの境地に他ならない。

さて、覚りの境地を目指す人は、あらゆる人間関係において自らの本心が求めていることは、実は他の誰もが(本心においては自分同様に)等しくそれを求めていることであるのだと理解すべきであり、そのように理解しなければならない。 そして、未だ覚りの境地に至っていない自分自身が、そのことをそのように心から思うことを邪魔している障碍の本体こそが名称と形態(nama-rupa)に他ならず、にもかかわらずその(障礙のもといたる)名称と形態(nama-rupa)を後生大事に心に抱え込んでいる姿こそが自分のすがた(=未だ覚りの境地に至っていない人の紛れもない現実の姿)であることに気づかなくてはならないのである。

それを為し遂げたとき、人は今現在において名称と形態(nama-rupa)を後生大事に抱え込んでいるとしても、時として真実なるこころ(真如)が発露することがあるということを(因縁によって)知ることになる。 そしてそれは、人智を超えた智、すなわち諸仏の智慧が確かに存在することをかれ(彼女)に知らしめるものとなる。

人が、そのようにして得た(正しい)結論は、かれ(彼女)にとっての個人的で独りよがりな結論に留まらず、実はそれこそが全人類における普遍の正しい結論なのである。 人は、この真実を自らのこころに嘘いつわりなく理解することによって、ついに自らの心を覆う名称と形態(nama-rupa)とをついに滅ぼす。 同時に、それはかれ(彼女)をしてあらゆる煩悩から解放するものであり、かれ(彼女)はすでに覚りの境地に至った自分自身を発見するのである。

覚りの境地に至ることを望み、目指す人は、人間関係の真実についてはこのように理解しなければならない。