【「正しい」と言うこと】

「正しい」と言うことは、それ以外のことが正しくないと頑迷に主張するものではない。 それは、法(ダルマ)についても当て嵌まることである。 ただ、法(ダルマ)について冷徹に述べるならば、法(ダルマ)以外のことはニルヴァーナには役立たないものであるということ、その事実はその通りである。

しかしそうは言っても、法(ダルマ)以外のことによって人が覚りの機縁を生じることがあるのであり、その中には解脱に直接働きかけるものさえある。 このことを説明することは難しいが、次のような例を挙げれば理解できるであろう。

たとえば、知恵の輪を解くには一連の定まった操作があるが、それはそれ以外の操作がまったく正しくないと主張しているのではない。 もちろん、知恵の輪に取り組んでいる人にとって、知恵の輪を解く一連の操作以外の操作はまるで無駄な試みのように見えるであろう。 しかしながら実際には、そのような無駄な操作をいろいろと試すゆえに、まさにそのようなことがあってこそついに知恵の輪を解くための定まった操作に辿り着くのであり、そのようにして答えたる一なる操作に辿り着いたとき、知恵の輪をまさしく解いたのであるという確かな感動を味わうことができるのである。 そして、その確かな感動を味わってこそ知恵の輪は解けたと言える。 つまり、この一見して無駄な操作がなければ知恵の輪を解いたという感動は生じないかも知れない。 感動を生じなければ知恵の輪を解いたとはいえない。

それと同じく、人が覚りを目指して道を歩むとき、法(ダルマ)以外のことがらについても考究するゆえに、それゆえに〈特殊な感動〉を生じ、それにともなって解脱が起こるのであると言えなくもないのである。

このように、人智を超えて仏智に辿り着くと言うことは何かとんでもない超越的なことを為せということではない。 しかし、世の一切の分別をまさしく超えたとき人は真実に辿り着き、〈特殊な感動〉とともに解脱することはまぎれもない事実である。 それは、確かに法(ダルマ)によってもたらされることである。 それを為し遂げたとき、人は正しく遍歴することの何たるかについてと、この円かなやすらぎ(=ニルヴァーナ)へと通じる一なる道の真実・全貌を知るからである。

それゆえに、聡明な人は、世に飛び交う一々の言葉そのものにとらわれることなく、また言葉の誤謬をも超えて、ついに真実のことわり(=真実に正しいこと)へと到達せよ。 けだし、「正しい」と言うことはつねに後づけで理解されることがらであるからである。