【正しい道】

たとえそれが正しい道であるとしても、それが正しい道なのだと見なし、こだわるならば、その瞬間に道を外れてしまうことになる。 また、たとえそれがどこに通じる道か知らないとしても、つねに初心にかえり、世間において身の回りで起こるあらゆる出来事に対して真摯に対峙して、他ならぬ自分自身を心から信頼しつつ道を求め、教えを聞こうと熱望して、そのようにして自ら見いだした道を歩き続けるならば、人は必ずや正しい道を歩むことを得て、ついには不滅のやすらぎ(=ニルヴァーナ)に至るのは間違いないことである。 それがそのように起きたとき、かれが歩んだその道は、まさしく正しい道であったのだと知られることになる。

ところで、覚りの境地に至る道においては、その道中においてその道が正しい道であるという気づきは何一つ起こらない。 すなわち、発心においても、(第一の、そして第二の)気をつけることにおいても、覚りの境地に至った瞬間においてさえも、覚りに至る道の道すがら地点と称すべきどの地点においても、それが正しい道であるという気づきは一切起こらないのである。 それゆえに、これらのことはいわゆる気づきとは無関係に起こることであると知られるのである。 なんとなれば、気づきには自分がそれに気づいたというはっきりとした意識か、あるいは少なくともその漠然とした意識認識が伴うものであるが、覚りに至る道すがらにおいては、そのようないかなる気づきも、およびそれにまつわるどのような意識認識も一切伴わないからである。 そして、自分が正しい道を歩いて来たのであるという確かな認識は、覚りの境地に至った後に後づけで起こるのである。

したがって、ここに覚りの境地を目指している人があって、かれ自身、自ら歩むその道すがらにおいて好ましい、あるいは好ましからざる何かの気づきがあったと言うのであるならば、かれの主張するその道は、覚りの境地に至る正しい道では無いのだと知らねばならぬ。

明知の人は、道についてのことわりをこのように知って、その真実をこころに領解し、世間において正しい道と称され、あるいは自らが正しい道と見なした道と名づくべきいかなる道についても、たとえそれが真実に正しい道であったとしてもそれそのものについてのこだわりを離れるべきである。 ただ自らに依拠し、自分自身を心から信頼して、(理法に適って正しく)精励するならば、正しい道はおのずから見いだされると信じてよいであろう。 それは、決して特別な認知を伴うものではないのであるが。

こころある人は、覚知後に正しい道であったと認められる正しい道をこそ歩めかし。