【聖なる沈黙】

誰にそのことを知られようとも後悔しないと確信できるとき、沈黙する必要はなく、口や体や心を用いて沈黙を破ることができる。

しかしながら、沈黙を破ることで、相手や目撃者やことの顛末を伝え聞いた人が、あるいは後世の人々が、そして結局は自分自身が苦しみ後悔すると思われる場合があるであろう。 そのようなとき、断固として沈黙せざるを得ないのである。 これを、<聖なる沈黙>と名づける。 そして、聖なる沈黙においては、自分がそのような沈黙をしていることを誰にもさとられてはならないのである。 なぜならば、もし誰かにそのことをさとられると、その人に何かをけしかけてしまう恐れが出てくるからである。

ところで、聖なる沈黙を正しく行為するならば、次のことがつねに期待され得る。

○ 知りもしないことを言わずに済み、相手の心と自分のこころの両方を安楽たらしめる。

○ そうしなければ知り得なかったであろう、自分の本心を知ることができる。

こころある人は、語ることよりもすぐれた沈黙があるのだと心に領解せよ。