【ブッダ】

名称と形態(nama-rupa)およびそれらの潜在形成の素因を滅尽して解脱し、こころの覆いがすっかりと取り除かれた人。 識別作用を滅し、あらゆる煩いと苦悩が根こそぎなくなった人。 過去と現在と未来を知り尽くし、行為について一切後悔することがなくなった人。 およそこの世で知るべきことをすべて知り終わって、為すべきことを為し終えた人。 自らの望みを絶ち切り、諸仏の誓願に生きる人。 法(ダルマ)を知り、法(ダルマ)にのみ依拠して生きる人。 こころを苛立たせ動揺させるあらゆる要因が滅し、争うことが完全になくなった人。 信と平等と徳行について努力することなくしてつねに精励し、円かなる平安の境地、安穏のニルヴァーナに住する人。 あらゆることがらについて執着と妄執とが終滅し、目覚めた人。 世間を出て、出世間に生きる人。 かれを、ブッダと呼びならわす。 ブッダは、人が因縁にもとづいて到達し世に顕れる、人としての究極の存在の相であり、その特質はやさしいということに言い尽くされる。

人は誰でも、行為によってかれが何者であるかが知られる。 ブッダは、かれがブッダの行為を為すという事実によってそうであると知られるのである。

ところで、人は何をどのように思慮分別しようとも、想いがその通りになることはなく、かれの行為は後悔の念が残る結果に帰着してしまう。 その一方で、ブッダは予め思慮分別することがない。 そのようでありながら、ブッダの行為の結末はつねにやすらぎに帰すのである。 ブッダは、後悔することの無い行為しか為し得ない存在である。 例えば、大人が故意に幼稚な絵を描こうとしても、どうしても大人が描いた絵にしかならないようなものである。 なぜならば、すでに大人なった人は、幼稚な線をたった一本さえ引くことはできないからである。 それと同様に、ブッダは後悔することの無い行為しか為し得ない存在なのである。

ブッダには、思惑が無い。 ブッダは、一切の想いを想わず、想いを超えている。 それゆえに、ブッダには好悪・善悪・正邪・優劣を生むような行動の動機自体が存在しない。 そのようでありながら、ブッダの行為の結果は、必ず大団円の終局を見るのである。

ブッダは、過去・現在・未来のあらゆるできごとについて、思い煩うことがない。 それゆえに、ブッダは何かをはからうということがないのである。 ブッダは、何かをはからった以上の結果をつねに享受する存在であり、一切のはからいを根本的に離れているのである。

ブッダは、つねにリラックスしている。 ブッダが人々(衆生)に接するさまは、親が我が子に接しているようなものであるからである。 そこには、緊張を生じるよすがそのものが存在しないのである。

ブッダには、世人が実感するような世俗的喜怒哀楽の感情は存在しない。 また、ブッダには気分というものがない。 ブッダに感情がないわけではないが、ブッダは感情的になることがないのである。 ブッダのこころは、つねにときほごされていて、心理的な引っかかりや心理的障碍が顕れるよすがが終滅しているのである。 それゆえに、ブッダには嫌いな人がいない。 ブッダは、怒ることが無い。 ブッダは、一切の争いを離れているのである。

ブッダは、如実知見であり一切知見である。 ブッダの行為は、あたかも事前にすべてを見通して為されたかのような(大団円の)結果を生じるからである。 この事前の知見ならざる知見の実在を、説明概念として一切知見と名づける。 ブッダの行為は、無分別智にもとづいて為される行為であるゆえに、その知見のさまは傍目にはそのように見えるからである。 ブッダの行為は、それゆえに後悔の念を生じることが決してないものであると知られることになる。

ブッダが勧める行為は、すべての人々に利益があるもので、誰一人として悲しませることがない行為である。 ブッダは、諸仏の誓願にもとづいて人々(衆生)に善き行為を勧める存在に他ならないからである。

ブッダは、具体的には次のような行為を為すゆえに、ブッダであると知られる。

● その人は、誰とも争うことが無い
● その人は、識別作用が止滅している
● その人は、すべての苦しみから脱れている
● その人は、始まりも、中間も、終わりもよい話をする
● その人は、誰も苦しめない
● その人は、誰にも影響を受けず、同時に誰にも影響を与えない
● その人は、他の人に何かをけしかけることがない
● その人には、貪嗔痴が認められず戒定慧が見られる
● その人には、迷いが存在しない
● その人には、嫌いな人は一人としていない
● その人の行為は、本人も他の人々も後悔せしめることがない

未だ覚りの境地に至っていない人が、ブッダの何たるかについて予め知ることは、かれの覚りの道においてとくに寄与するべき何ものも無いことではあるが、こころある人がブッダの何たるかを聞き知って、安易に憧れたりせず、ブッダに対する根底のこだわりを離れるのであるならば、その(こだわりを離れる)機縁となるのであるならば、かれがブッダについて知識を得たことは善かったのであると認めてよい。 ブッダの何たるかについて知りたい人は、そのように知るべきことを知るべきである。 ブッダの真実は、自ら覚りの境地に至ったとき、はからずも認知することになるからである。