【出家】

出家とは、家を出て覚りの境地を目指す生活に入ることを言います。 ただし、注意すべきことは、例えば社会から隔絶した山の中に入って孤独に暮らすことが出家ではないということです。 そのような短絡的行為は、形のみを追いかけて出家本来の意味を忘れた行為であると知らなければなりません。 出家は、出離が具現化したものであり、出離が究極において目指すところは離貪(解脱)です。 すなわち、出家は、すでにこころが俗世間から出離していることを具体的な行動として実行したひとつの表現方法であり、出離が本体であり出家はその作用であると理解しなければなりません。 したがって、覚りの境地に至るためには先ず出家が必要なのだという考え方は、本末転倒です。 つまり、出家があって出離が起こるのではなく、出離があって出家という形が(因縁によって)顕れるのだと知らなければならないのです。


[家]
出家を理解する前提として、先ず「家」について説明します。 家とは、一言でいうと人が生活の基礎として、あるいは生活そのものとして自分の好みに基づいて作り上げた物理的、精神的建造物のことです。 家を家庭の意味で説明すれば、ある人が自分にとって好ましい異性を見つけて結婚することを出発点とし、互いの好みを確認しながら生活の場や職業を選び、好みにもとづいて住まいを整え、好みにもとづいて子供を育てあげ、好みにもとづいて近所付き合いや友達付き合いを行い、好みにもとづいて生活全体の均衡をはかる。 これが家庭です。 また、家を書道家や武道家、華道家、演劇家などのいわゆる宗家の意味で用いる場合も同様です。 すなわち、宗家とは創始者の好みにもとづいて築きあげ完成されたその道に関する行動様式や細かな作法、気持ちの置き所や目的意識などのそれに関わるあらゆる総体の流儀です。 そして、その流儀にもとづいて特定の宗家を立ち上げ、その流儀に賛同する初心者を入門させて弟子とします。 さらに、時を経るごとに発展した宗家の構成員の中から、宗家の主催が好みの熟達者を後継として指名し、その宗家を代々相続させます。 このようなものを家と呼びならわします。

[家をつくる原動力]
ところで、人々が家をつくろうとする心の原動力(潜在的動機の素因)には二つあります。 一つは、生まれてから得たいろいろな経験によって形作られ積み重ねられた好悪の感情、あるいはそれらの抑圧によって熟成された個人的無意識、すなわち名称(nama)の作用にもとづくものです。 もう一つは、全人類が共有する人類全体の無意識の意向(集合的無意識,元型群)や長い時間をかけて熟成された人類の歴史のエッセンスであり心に突き上げてくるある種の感動、すなわち形態(rupa)の作用にもとづくものです。 したがって、家は家庭であれ宗家であれ、人々(衆生)の心を特定の好ましさの虜にする(潜在)力を持っており、それは真実では無いにせよ一定の精神の拠り所になり得るものです。 このため、人々(衆生)は家に居るとき、家に属するとき、それが真実・不変ではないにせよ一定の安心を得ることができるのです。 要するに、人々(衆生)にとって家は居心地が良いのです。 したがって、いくら覚りの境地に至るためとは言え、実際に家を離れること(出家すること)は大変困難なことだと言えるでしょう。

[出家と家出]
出家とは、家を出て家から離れることです。 すなわち、自分の好みで塗り固めたものを敢えて捨て、自ら起こした覚りへの正しい発心と熱望によってその束縛から真実に離れることです。 出家とは、その土地や所属組織を離れ、束縛としての人間関係を引きずることなく離れ、かつてのことに思いを残さず、それまで馴染んだ固有の文化生活から精神的に離れることを言います。 すなわち、出家は少なくとも表層的に意味においてさえ精神的束縛から脱出することを本質としています。 その意味において、出家は解脱の前提であると言えるのです。 したがって、出家とは物理的に家を捨てて山にこもることでは無く、あくまでも精神的に家(好み)を捨てることを意味しています。 勿論、物理的にも家を出ることはより勝れた行為であると言えますが、形だけ家を出ても心が家(好み)から離れ切れないならば、それは出家ではなく家出(いえで)に過ぎないと考えなければならないのです。 すなわち、出家が本来意味するところは、これまでの生活において自分を安楽ならしめていた(と今でも思い込んでいる)あらゆる好みを、自らの発心に従って敢えて捨て去ることなのです。 そして、そうすることによってそれらが実は自分ならざるものに由来する借り物に過ぎないことを知り、またそれらが安楽の要因ではなく苦の原因に他ならないことを知るのが出家生活の目的なのです。

[出家の実際]
先に述べたように、出家は社会から隔絶した山の中に入って孤独に暮らすことではありません。 出家は、あくまでもこれまで自分の好みで塗り固めてきた精神的建造物を捨て去ることです。 ですから、実際には、特定の社会組織に所属したままでも出家生活は可能です。 出家とは、具体的には苦楽の本になっている競争意識を捨て去ることであり、余計なプライドを捨て去ることであり、敢えて他人の考え方を尊重して自分の考えに固執することを捨て去ることであり、何かを独占したいという気持ちを捨て去ることなのです。 言い換えるならば、出家とは徳と信に生きる生活のことであり、さらに平易に言えば誠実でものおしみしない生活を営むことなのです。

[出家の効能]
正しく出家生活を営むとき、人無我を真実に理解するに至ると期待され得ます。 これこそが、出家生活の真の効能であり目的なのです。

[出家の時期]
正しい出家は、時期を得て行われたのだと知られます。 すなわち、出家の正しい時期とは、その人が出家することに関してその人の身辺のあらゆることについて後悔することが無い、オールOK(大団円)の時期であるからです。 逆に言えば、その人が出家することによってただの一人でも苦しむ人がいるとするならば、それは出家の正しい時期ではないと知らなければなりません。 覚りの境地を目指す人は、そのような誤った時期に出家してはなりません。 そして、人は正しい時期に出家しない限り、覚りの境地に至ることは無いと知らなければならないのです。

出家の時期を正しく得ることは巣立ちの様子に似ています。 すなわち、子供が大人になる過程において、自ら時期を得て親元から巣立っていくようなものであるからです。 そして、巣立ちは、子供にとっても親にとっても真実に喜ばしいことでなければなりません。 そのようになるためには、そのとき親離れと子離れの両方が達成されていることが前提となります。 また、巣立ちは子供が自立するために行われるものですが、それができるのは実は子供がすでに(精神的には)自立しているからに他なりません。 それと同様に、出家する人はすでにブッダになるためのこころが定まっているのであり、それを真実に我が身に顕現するために敢えて出家という形式を世に示すのだと考えなければなりません。 ところで、巣立ちは、子供が親から孤立した状態であったり、逆に親の(手前勝手な)期待を一身に背負ったような状態ではうまく行きません。 それと同様に、何かにけしかけられるようにして行われた出家は、すなわち時期を得ないで行われた出家は、覚りの境地を目指す人が行うべき正しい出家ではないと知らなければなりません。 つまり、出家は、巣立ちのように正しい時期を自らが知って、そして周りの人々もその時期が来たのだと知って行うべきものであるからです。


[補足説明]
喜怒哀楽の楽味(味著)に浴した世間の境界から離貪を為し遂げた出世間の境界に至るまでの道筋は、大まかに言えば次のような順序で顕れます。

 楽味(味著) → 過患 →  出離  → 離貪

なお、これを実践面で言い換えれば、次のようになります。

 煩悩 →  一切皆苦  →  発心  →  精励

ただし、この順序を踏んで段階的に離貪に至るというわけではありません。 あくまでも、離貪に至った人がそれまでのことを振り返ったとき、このような順序であったことを見るということなのです。