【縁起】

縁起とは、ある条件によってあることが起こるということを指す言葉であるが、その真実に意味するところは一切(六識による認識)が縁起しており、苦もまた 縁起であるということである。 そして、苦が縁起であるゆえに、苦は滅することができるものであると知られるのである。 なお、一切および苦が縁起する理 由は、それらが無常なるもの(常住ならざるもの)であるということに依拠している。

縁起は、次に述べる二つの真理が同時に、しかも相依関係として成り立ち、そして”これ”にあたる部分は群を成しているということを言う論理構造を伴う説明 概念である。 論理説明を明快なものにする関係上、”これ”が群を成さず一つの場合について論理式を口述するならば次のように述べることができるものであ る。

 ”これ”があるゆえに、”かれ”がある ── (1) 順観

 かつ

 ”これ”がないゆえに、”かれ”がない ── (2)  逆観


苦についての縁起では、”これ”にあたるものは群を成すいくつかの苦の要因要素であり、具体的には三毒(貪嗔痴),五蘊(色受想行識),名色(名称と形態 (nama-rupa)),十二因縁など、あるいはそれらとの”接触”や”感受”がそれにあたる。 したがって、上記論理式の”これ”の部分にそれらの要 因要素を順次代入して完成したそれぞれの式を連立に並び記す形が苦の縁起を表すものとなる。 そして、すべての連立式において”かれ”にあたるのは”苦” である。

さて、上記(1)(2)から読みとれるように、苦の縁起とは順観部分によって苦が発生する因果を形式的に説明し、逆観部分によって苦の滅を説明するものに なっている。 よって、”これ”にあたる群を成す要因要素のどれか一つでも滅することができたならば、要因要素として群を成すすべての”これ”がそれと同 時に消滅し、その結果苦が根こそぎなくなることになるのである。 そして現実に覚りの境地に至ったとき、三毒(貪嗔痴)が三学(戒定慧)に転じ,五蘊盛苦 が滅し,ケイ礙(引っ掛かりとさまたげ)が滅し,現世および来世における苦の因縁(二つのカルマ)が滅し,苦(二の矢)と悩み(おののき,たじろぎ)が滅 するということが、一挙に起こることが体験されるのである。 ゆえに、群なる苦は縁起していると知られるのである。

そして、(群なる)苦が縁起であるゆえに、苦は(原理的には)いろいろな方法で滅することができるものであることが保証されることとなり、逆に(少なくと も正しい道によって)苦を残らず滅することができるという事実が苦の縁起がそのような性質のものであることを実証している。 そして、それが普遍性をもつ ゆえに、苦の縁起とは法(ダルマ)そのものであると言えるのである。 また、いろいろな苦の要因要素すべてが、(それを逆手に取ることさえできるならば) 苦を滅する直接の要因となり得るということを示すものであり、これを煩悩即菩提とも言いならわす。 したがって、あらゆる煩悩の数と同じだけ覚りの道があ るという理解は間違いではない。


なお、”これ”と”かれ”とが相依関係であるゆえに、時間関係をはっきりさせた上で先の記述を次のように言い換えることもできる。

 ”かれ”があることが認知されたならば、それ以前に”これ”らのうちのどれか一つ、あるいはいくつか、あるいは全部が確かにあった ── (1)´

 かつ

 ”かれ”があることが認知されなかったならば、それ以前に”これ”らのうちどれ一つとして確かになかった ── (2)´

ここで、(2)´は、苦の消滅とは苦に耐えることではなく苦の原因そのものが消滅していること、すなわち一切後悔しないこころ(境地)に到達することであるこ とをよりはっきりと主張することになるのであるが、それは覚りの境地において実際に起こることと確かに符合している。 もろもろの覚者は、自らの身に体現 された事実にしたがい、苦の縁起について同じことを語るのである。

それゆえに、こころある人があるならば、かれは(群なる)苦をたった一つの智慧によって一網打尽するに至るのである。


[補足説明]
このことについて、釈尊の原始経典(スッタニパータ <二種の観察>)における縁起についての説明部分を引用し、整理するならば次のようになります。 すなわち、を集合、/*を*の否定(*でない)としたとき、

={苦しみの原因,素因,無明,潜在的形成力,識別作用(識),接触,感受,妄執(愛執),執著,起動,食料,動揺,従属}

={苦}≡b

 縁起: (∀x|x∈) (x ⇒ b) かつ (ヨx|x∈) (/x ⇒ /b)

ちなみに、因果律(一切皆苦)は縁起の順観部分に対応しており、四諦の滅諦は逆観部分に対応しています。

 因果: (∀x|x∈) (x ⇒ b)     ── xなるどれによってもbが顕れる

 滅諦: (ヨx|x∈) (/x ⇒ /b)   ── xなるどれか一つでも無くなれば、bは無くなる

なお、先に述べたことの繰り返しになりますが、滅諦においてはbが無くなりそして因果の式と滅諦の式が”かつ(論理積)”で結ばれているゆえに、結果として順観部分が主張するの要素はすべて消滅することになります。 つまり、苦しみの原因,素因,無明,潜在的形成力,識別作用(識),接触,感受,妄執(愛執),執著,起動,食料,動揺,従属として示された苦の要因要素が、滅諦においてはすべて消滅することになります。

  → <二種の観察> の原文


[補足説明(2)]
一切(六識)についても、縁起が成立しています。 ある意味では、こちらの方が分かりやすいかも知れません。 なぜならば、六識(眼耳鼻舌身意)について は、その対象物が目の前から無くなったり、目や耳や鼻などをしっかりと塞ぐことによって”接触”を断てば、それについての識(認識)が無くなることを誰で も実感できるからです。 すなわち、実際のところ、目を閉じれば今まで見ていた対象物の色や形や模様を自力で想起することは出来ないことが分かるからで す。 勿論、目を開けて再びその対象物を見れば、その色や形や模様が先程まで見ていたものとまったく同じであることが(確かにそうであったと)再びはっき りと認識されますが、目を閉じた状態でそれを自力で想起することはできないのです。 耳や鼻や舌、感触、意識についても同様です。 一切についての縁起が 真理であることは、それらについての認識が自力で想起することは不可能であり、その条件が同じように整わない限りその同じ認識が再現されないという事実か ら、そうと知れるのです。 つまり、上に記した論理式の(/x ⇒ /b)が実感しやすいであろうということを言いたいのです。