【空住】

空は、最初から何も無いということではなく、あった(と思っていた)ものが無くなることを意味する言葉である。 空によって何が無くなるかと言えば、煩い が無くなるのである。 すなわち、いくつかの空の境地に順次住すること(空住)によってより微細な煩いが順次に滅して行き、見かけ上覚りの境地に近づいた 境地(境界)を垣間見ることができるのである。 しかしながら、それぞれの空住およびその行き着くところは、いずれも本当の覚りの境地ではない。 した がって、覚りの境地を目指す人は、このような順次住する空の境地を極めていくことによっては、本当の覚りの境地に到達することはないということを先ず知ら なければならないのである。 空に住するプロセスと覚りの境地に至るプロセスとはまったく別のものである。 これらには、見かけはともかく、本質的ないか なる共通点も見いだすことはできない。 例えば病気に対して処方する対症療法と根治療法ほどの違いがあるのである。 つまり、空に住することはいわば対症 療法に他ならず、それはそのときだけの一時的なものに過ぎず、抜本的に苦を滅する道ではないからである。 一方、覚りの境地に至る道は、いわば根治療法に 相当するものであり、それは滅することもなく、転じることもない不滅の安穏なのである。 したがって、覚りの境地に至ることを目指す人がこのことを理解せ ず、あるいはまったく知らずに空住にあこがれ、空住に依拠した生活を送るならば、かれはそれゆえに覚りの境地から遠く離れ、ついに覚ることはないのであ る。 対症療法に明け暮れて、根治治療を怠る病人のようなものである。 それでも、空に住する境地(空住)に興味が者のために、以下では空および空住の真 実について敢えて記すことにする。

さて、目の前に箱があり、その中に何某かの物が入っていると想像するところから空住の説明を始めることができる。 まず、箱の中の物をすべて取り出してし まえば、箱の中は物について空(カラ:くう)になるであろう。 これが、物について空という意味である。 しかしながら、箱の中にはまだ入っているものが あると認められよう。 すなわち、空気(Air)が入っていると知られるからである。 そこで、箱を密閉してポンプで箱の中の空気をすべて取り出すと、箱 の中は空気について空となるであろう。 これが、物について、および空気について空という意味である。 しかしながら、それでもまだ箱の中に入っているも のがあると認められよう。 すなわち、地球上を行き交う電波が、箱の中を通過していると知られるからである。 そこでさらに、箱を電界シールド(金属箔で 覆って接地する)すると、箱の中は電波について空となるであろう。 これが、物について、空気について、および電波について空という意味である。 さて、 それでもまだ、箱の中に入っているものがあると認められよう。 すなわち、地磁気は電界シールドでは遮断できず、箱の中を貫通していると知られるからであ る。 そこで、さらに箱を磁気シールドすると、箱の中は地磁気について空となるであろう。 これが、物について、空気について、電波について、および地磁 気について空という意味である。 それでもまだ、箱の中に入っているものがあると認められよう。 宇宙空間からやってくるある種の素粒子(ニュートリノな ど)は、箱の中を通過するからである。 ── このように、箱の中を空(カラ)にするということは、一筋縄ではいかないことである。 空の境地に順次住す る過程とは、譬えればこのようなことなのである。

すなわち、空に住するとは、より粗大なものから微細なものへと順次に煩いの原因を追及し、その原因をこころに理解して順次に排除していく過程を指しているのである。 以下に、空住についてその具体的な過程を記す。

 最も粗大な煩いは、目の前にいろいろな物があるということによる煩いである。 自然物にせよ人工物にせよ物があることによって、嫌な色があり、嫌な形 があり、嫌な音があり、嫌な臭いがあり、嫌な味があり、嫌な感触が生起するからである。 そして今、自分が煩っているのは、目の前にいろいろな物があるこ とによるものであると正しく理解し観じる人は、その煩いを排して物について空に住することができるのである。 例えば、物を見えないところに移動したり、 物自体を捨て去ることによってそれについての煩いを離れることができるであろう。 あるいはまた、物に対する思い入れを無くしていくことで、物を移動する までもなくその煩いを離れることもできるであろう。 このようにして、物にもとづく煩いから離れた究極にあるのが物について空であるという境地なのであ る。

 さて、目の前の物について空に住しても、まだ煩いが残っていることに気づくであろう。 それは、目の前に人がいるということによる煩いである。 人が いることによって、可笑しくなったり、腹が立ったり、気を取られたり、気が散ったり、落ち着かなくなったりするからである。 人は動かない物体では無いゆ えに、人についての思い入れを排除するだけでは空ならしめることはできないのである。 さて今、自分が煩っているのは、目の前に人がいることによるもので あると正しく理解し観じる人は、その煩いを排して空に住することができるのである。 例えば、他人の中にいると煩いが多いけれども、親しい仲間どうしや家 族の中にいると煩いは少ないことを人々は感じていることであろう。 相手によって煩いの程度に違いがでてくる事実を鑑みるならば、その違いの源を冷静に追 求していくことによって、ついには人についての煩いをも離れることができるのである。 そのようにして、人についての煩いから離れた究極にあるのが、(物 についておよび)人について空であるという境地である。

 ところが、目の前の物について、および目の前の人について空に住しても、まだ煩いが残っていることに気づくであろう。 それは、周りの木々がざわめく ということによる煩いである。 木々がざわめくことによって、爽やかな気持ちになったり、あるいは不意にぞっとしたりするのである。 そして今、自分が 煩っているのは、木々がざわめくことによるものであると正しく理解し観じる人は、その煩いを排して空に住することができるのである。 例えば、台風や嵐の ときには木々がざわめく煩いが大きいけれども、そよ風が吹くような心地よい日和には木々のざわめきも親しげで煩いが少ないことを人々は感じていることであ ろう。 そのような違いを観じて、木々の想いによる煩いから離れた究極にあるのが、木々のざわめきについて空であるという境地なのである。

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空に住することは、この後も続きがあるが、以下ではその項目だけを最初からおしなべて列記する。

(1) 物に託された想いを作為せず、物について空に住する。
(2) 人の想いを作為せず、人について空に住する。
(3) 木々の想いを作為せず、木々について空に住する。
(4) 大地に残る歴史の痕跡の想いを作為せず、大地に残る歴史の痕跡について空に住する。
(5) 空無辺処(広大な空間を越えて感受される煩いの対象)の想いを作為せず、空無辺処について空に住する。
(6) 識無辺処(命の素因にもとづいて感受される煩いの対象)の想いを作為せず、識無辺処について空に住する。
(7) 無所有処の想いを作為せず、無所有処について空に住する。
(8) 非想非非想処の想いを作為せず、非想非非想処について空に住する。
(9) 無相をも作為せず、無相について空に住する。 → ここに住すれば、それが覚りの境地です。

上記では、空に順次住することについて順番づけて列記したが、最後の(9)は(1)〜(8)とは無関係に顕現する境地である。 つまり、順次ステップアッ プして(9)に到達する訳ではない。 したがって、空に順次住することを覚りの境地に至るプロセスとして位置づけることはできないのである。 したがっ て、空に住することは、覚りの境地に至ることとは無関係であると断じることができるのである。 しかしながら、空に住する体験には何の意味も無いのであろ うか? まったく意味が無いとは言えないであろう。 例えば、テレビやラジオなどで遠い国の様子を見たり、遠い国の出来事をニュースで知ったりすることに よって、実際にその遠い国に行ってみようと思い立ち、その思いを実行に移すこともあるであろう。 それと同様に、空に順次住することによって、それらの境 地の究極(実際にはそれらを根本的に超越した究極)として覚りの境地が位置づけられるということを知るならば、人は結局は空に住することを捨て去り、真実 の覚りの境地を目指すことになるであろう。 その意味において、その期待においてのみ、空住には意味があると言ってよいのである。

さて、(9)の境地が特別なのは、そこに至ったとき(1)〜(8)の境界とは違って次のようなことを如実に知ることによっている。

● 自ら無明を破り、覚ったということを如実に知る。
● 為すべきことは為し終えたということを、如実に知る。
● (9)に安住し、(1)〜(8)のいずれの境地にも逆戻りしない自分を発見する。

一方、(1)〜(8)の境界は、単にそれぞれの空に住したということを知るに過ぎず、しかもその境界を自力で持続することさえできないものである。 それゆえに、(1)〜(8)は互いに行き来することのできる境地なのである。

なお、無所有処は一歩間違えば神経症の世界であり、非想非非想処は一歩間違えば精神病に陥った状態である。 これらは、対症療法の究極と言えば聞こえはよ いが、言ってみれば治療薬として睡眠薬や麻薬を用いるような愚かな行為に他ならない。 これらは、病気の原因や病状を最初から無視して、取り敢えず眠りに よって苦から逃れたり、脳に錯誤を起こして安直に悦楽を生じさせ起きている間の苦を覆い隠すものなのである。 それゆえに、いずれにせよこれらは後で大き なしっぺ返しが起こることが避けられないものである。 人をして、廃人にしてしまう畏れさえあるものである。 もし、人が空の境界を順次極めることで覚り の境地に至ろうとするならば、これらの正しからぬ袋小路の境界に自分を追い込んでしまう危険が常につきまとう。 また、本当のところこれらは境地とさえ言 えないものなのである。 例えば、テレビやラジオで見聞きした世界は、いかにそれが真に迫っていても所詮真実の世界では無いことに似ている。 異郷世界の 真実は、実際にその場所に行かない限り、本当のところは何一つ実感することはできないものなのである。 テレビやラジオの番組で、お茶を濁していても始ま らないのである。 テレビやラジオに耽溺する人は、それだけで満足して実際にその場所に行こうと思わなくなるおそれがあるように、空の境界の探索もほどほ どにしないと覚りの境地を正しく求めることそれ自体を喪失するおそれがあるのである。 道を求める人は、とくに注意すべきことである。

実際の処、空という言葉を知っていようが、知っていまいが、また空の境界を知っていようが、知らないでいようが、正しい道によって精励する人はついには覚 りの境地に至ることは間違いないことである。 それは、テレビやラジオでその場所のことを予め知っていようが、知っていまいが、その場所を実際に訪れたと きに味わう感動に何ら違いは無いようなものである。 それゆえに、覚りの境地を目指す人は、空にとらわれて足踏みすることなく、正しく精励し、すみやかに 本来の目的をとげるべきなのである。


[補足説明]
釈尊の原始経典においては、このことはパーリ仏典の「中部経典-第121経」に、漢訳では「中阿含経-小空経」に記されているとのことである。(ゴータマ・ブッダ 早島鏡正著 講談社学術文庫 ISBN4-06-158922-9 による)

[補足説明(2)]
余談であるが、あるべからざる境地である(7),(8)を除き、(1)〜(6)を別の言葉に表現し直すことができる。 すなわち、

 (1)        → 色(物質的形態)
 (2)および(3) → 受(感受作用)
 (4)        → 想(表象作用)
 (5)        → 行(潜勢力)
 (6)        → 識(識別作用)

に対応させるのである。 このように対応させて空との関係を述べた(補助的)経典として、般若心経が知られている。

[補足説明(3)]
さらに、(1)〜(3)は現在におけることを原因とする煩いであり、(4)〜(6)は過去におけることを原因とする煩いである。 それぞれを代表して、 「受」と「想」を取りあげ、それらが消滅した境地が覚りの境地であるという意味で、想受滅という言い方をすることもある。 また、(1)〜(4)は名称 (nama)に関する煩いであり、(5),(6)は形態(rupa)に関する煩いであるととらえることも出来よう。

[補足説明(4)]
空は、うつろであるとか、むなしいとか、もの悲しさを秘めたとかの情動や情緒とは関係ないことである。 空に住することは、ある種の充実感や爽快感を呼び 起こすものであるのは確かなことであるからである。 ただ、それは覚りの境地に至ったことによる本当のこころの充実とは違うということなのである。 それ は、先にも述べたことであるが、テレビを見たことによる感動と、実際にその場所に行ったことによる感動とは、同じ感動という言葉を使っていてもその真実の ところはまったく違うものであるようなものなのである。