【気をつけること】

世間におけるあらゆる煩いと一切の苦悩の終滅を願う人がこころに行うべきこと。 それは、気をつけることである。 すなわち、気をつけることによって人は(あり得べき)正しい<観>の確立と完成とを為し遂げることができ、また気をつけることによって<善知識>が稀有に発する<法の句>を聞き及んで、その真実を識ることができると期待され得るからである。 そして、気をつけることは、たとえ今現在覚りの境地に至ることを目指していない人にとってもつねに利益(りやく)を生じる因となり、大いなる功徳を生むよすがとなるものである。

人は、誰かを送り出すとき次のように声をかけるであろう。

 ”いってらっしゃい 気をつけてね”

これが、気をつけることの本質を端的に言い当てている。 ここで送り手が言っていることは、「道すがら周りの様子を一々確認して行きなさいよ」という意味ではないことは明らかである。 また、「道すがら自分が手足をどのようにしながら目的地に向かっているかなどについてつねに気づいていなさい」という意味でもない。 もし人が、この言葉を言葉通りに真に受けて、そのとおりにするならば、それは危なかしくて仕方がないことであるからである。 すなわち、

 ”気をつけてね”

とは、つねに気づきの中にいなさいと言う意味ではない。 それは、必要な時に過不足のない気づきと、不測の事態への適切な対応が行えるように、余計なことを考えたり周りのことに気を取られないで、普段通りに行きなさいよと言う意味である。

ところで、人が誰かを送り出すときにわざわざこのように声をかけるのは、世の中のことはいつも通りに事が運ぶとは限らないことを(こころの深奥で)知っているからである。 たとえ、送り出す相手がいつもの時間にいつもの場所へ向かうのであり、いつものようにして行くのであると分かっていたとしても、送り出す人は敢えてこのように声をかけるのである。 もし送り出す相手が、いつもではない場所へ向かい、いつもではない時間に出発し、いつものようには向かわないことが分かっているとするならば、送り手はさらに語気を強くして、

 ”気をつけてね!”

と声をかけることであろう。 そのように敢えて強く声をかけることが、気をつけることに少しでも役だって欲しいと願うからである。

ところで、ある人が今現在まさしく気をつけているかどうかは、かれ自身直接に認知できないだけでなく、他の誰にもはかり知れないことである。 しかしながら、何かの行為が終わったとき、その行為の最中に気をつけていたかどうかは振り返えれば分かることである。 逆に、そのときに気をつけていなかった場合も、振り返ったときに必ず思い当たることである。 けだし、すべての行為の本質は、後づけで理解される性質のものだからである。

気をつけるということは、一切後悔しない行為を為すということと同じである。 なんとなれば、人が何某かの行為を為してのち、かれ自身がその行為の顛末を振り返ってかれ自身何も後悔することが無いと確信できたならば、自分がよく気をつけていたのだと分かるからである。 逆に、人が自らの行為を振り返ったとき、行為の不全感があり、何がしか後悔の念が残ったとするならば、かれは自分がよく気をつけていなかったのだと認めざるを得ないのである。

また、誰であっても、意思を働かせることによって気をつけていることはできない。 なぜならば、意思を働かせて気をつけていようと思ったその瞬間に、すでに自分本来の姿を無くしているのであるからである。 それは傍目にもぎこちないものに映る。 そして、そのようにぎこちなく映るというそのことが、かれが気をつけていないことを如実に証明している。

真実に気をつけることは、容易なことではない。 しかしながら、普段から気をつけている人は、種々さまざまなことについて気をつけていられるようになる。 なんとなれば、正しい熱望と心構えをもってことに臨み、何が起ころうとも目の前のことを疎かにせず、真摯に取り組んでいるならば、それこそがまさしく気をつけていることに他ならないからである。

なお、具体的に述べるために、強いて逆説的に言うならば、正しく気をつけることは次のようなことを為さないようにすることであると言い換えることができる。

■ 善かれと思って後悔する行為を為してしまうこと
■ 口では何と言おうとも、自分が世界で一番やさしい人間だと頑迷に決め込んでいること
■ 法(ダルマ)を求める気持ちは誰にも負けないと自負しながら、他の人の正しき発心を軽んじてしまうこと
■ あらかじめ恥を知っていたのにそれを失い、恥知らずになったゆえに煩悩に翻弄されていることに気づかぬこと
■ 自分では一歩も動くことなく人をけしかけ、しかも人が失敗して苦しむのを楽しみとしている自分の姿に気づかぬこと
■ 自ら老いる身でありながら、老いた人を嫌悪し、面倒だなと思い、しかも自分だけは老いないと思っていること
■ 自ら病にふせる身でありながら、病にふせった人を嫌悪し、面倒だなと思い、しかも自分だけはいつまでも健康であると思っていること

こころある人は、このような行為を為さないように、よく気をつけて日々を送るべきである。