【一切皆苦の真実】

世の一切の感受、すなわち人々(=衆生)が六識(眼耳鼻舌身意)によって感受するすべてのことは、つまるところ苦であるということを一切皆苦と言いならわす。 ここで、一切がつまるところ苦であるというのは、人々が楽であり喜びであると感受したことが、後にそれとまったく同じことを感受しても苦としか認知されないという意味ではない。 一切がつまるところ苦であるというのは、人々が楽であり喜びであると感受したことがそのままの形で、それそのものがその本当のところは苦に他ならないということである。 実に、錯綜した認知が苦の真実を歪め、人々が苦をそのまま苦であると正しく認識することは出来なくなっている。 その不幸なありさまを知って、もろもろの如来はこの世はすべてが顛倒している(さかさまである)世界であると語るのである。

実のところ、人々にとって苦は苦として認知されることは無く、たとえ正しい認知を生じつつあったとしても結局は苦ではないものを苦であると誤認して認知する心の仕組みが出来上がっている。 そして、この誤認の仕組みこそが名称と形態(nama-rupa)の作用に他ならない。 その結果、人々には迷妄と妄執とがつきまとうことになる。

人々が名称と形態(nama-rupa)とを心に有する限り、一切皆苦の真実を正しく認知しその仕組みを理解することは期待できない。 たとえ、如来が説く「一切皆苦」という言葉を知っていたとしても、その真実を正しく認知し、理解することはできないであろう。 その様は、人が錯覚図形を見て、それが錯覚図形なのであると頭では分かっていたとしても、錯覚を生じて見えるという認識の事実そのものを回避することは出来ないようなものであるからである。 すなわち、今、この文章を読んで一切皆苦の錯綜したありさまについて心から納得した人であっても、一切皆苦の真実を正しく理解することは難しい。 それほど、一切皆苦の真実は、人々の理解するところから隔たっているのである。

しかしながら、ここなる人が聡明であって、一切皆苦の真実を知ろうと熱望し、次のように観じるならば、その観の完成に伴ってついには一切皆苦の真実を知ることができると期待され得る。

 『衆生である限り、この世には楽しんでいる人、喜んでいる人など誰一人としていない』

すなわち、お金持ちのあの人も、身分の高いあの人も、才能豊かなあの人も、経験豊かなあの人も、意地悪なあの人も、狡猾なあの人も、傲慢なあの人も、自由奔放なあの人も、脳天気なあの人も、若い力がみなぎるあの人も、美とセンスにあふれるあの人も、いかにも健康そうなあの人も..、その他のいかなる人であっても、この世には本当に楽しんでいる人、本当に喜んでいる人など誰一人としていないのであると観じ、その真実を見極めることが苦の覚知を促すのである。 そして、人が一切皆苦の真実をまさしく覚知するに至ったとき、かれ(彼女)はすでに円かなやすらぎ(=ニルヴァーナ)の近くにあるのである。