【愚かな行為】

未だ覚りの境地に至っていないとしても、世にこころの根底から愚かな人などは誰一人としていない。 しかしながら、そうとは知らずに愚かな行為をすることはあり得ることである。

以下に列記することは、愚かな行為と呼ばれる。

■ 分別がないから(つまり頭が良くないから)愚かな行為をするのではない。 やさしくないから愚かな行為をするのである。

■ 善悪のけじめがつかないから愚かな行為をするのではない。 後悔の念が残るならば、それは愚かな行為であると知らねばならぬ。

■ 嫌な相手が愚かな人なのではない。 他人を嫌うあなたこそが愚かなのである。

■ ものに疎いから愚かな人なのではない。 知っていて、それでいて敢えて知らないふりをする者こそが愚かなのである。

■ 傲慢であること、意地悪であること、ケチなこと、我儘であることなどのありとあらゆる世の中で嫌われることをする人が、それゆえに愚かな人なのではない。 それを知っているのに(思いやりをもって)何ら指摘してあげないあなたこそが愚かなのである。

■ (ことに臨んで)無力な人が愚かな人なのではない。 その人のために容易に為し得ることを、(何かが心に引っかかって)敢えて為そうとしない者こそが無力な者である。 そして、それは愚かなことなのである。


このように、この世に愚かな行為はあっても愚かな人などと呼ぶべき人は誰一人としていない。 なぜならば、人々(衆生)は自分ならざるもの、すなわち名称と形態(nama-rupa)に突き動かされている存在であり、それゆえに善かれと思って結果的に愚かな行為を犯してしまうのであるからである。 したがって、主観的にも、客観的にも、愚かな行為は確かにあるが、愚かな人などと呼ぶべき人は誰一人として存在しないのだと知るべきである。

ところで、世間に現れるあらゆる種類の愚かな行為は、すべて因縁によって起こることである。 それゆえに、覚りの境地を目指す人は、罪を憎んで人を憎んではならない。 自らの心を制し、怒りを静めて、他の人が愚かな行為を犯す姿を見ても、よりいっそうの思いやりのこころを起こすべきである。 そしてまた、覚りの境地を目指す人は、(自分自身の行為を含めた)あらゆる行為を非難してはならない。 非難をも賞賛をも超えて、行為の本質を見極めよ。 そうすることによって、ついに人は「愚かさ」の真実を知り究め、ついに愚さから脱却することができるのである。