【行為】

何かを行為したときに、後になってそれが善かったと思うのであれば、その行為を為したことは間違いなく善かったのです。 そのとき、何も考えずに適当に行為していたのだとしても、後になってそれが善かったと思うのであれば、その行為を為したことは間違いなく善かったのです。 例え、そのときどこかに意地悪な気持ちを抱いて行為していたのだとしても、後になって結果的にそれが善かったと思うのであれば、その行為を為したことは間違いなく善かったのです。

逆に、何かを行為したときに、後になってその行為が善かったとは思えずに後悔するのであれば、いかなる理由があるにせよその行為を為したことは間違っていたのです。 すなわち、それについてあなたが大変な努力をしたのだとしても、それについてあなたがどんなに周到に準備したのだとしても、またそれについてあなたが心から善かれと思ってしたのだとしても、後になってその行為を為したことを後悔するならば、その行為は間違っていたのです。

その行為を為したことが善かったのか、それとも間違っていたのかは、後になって振り返ったとき誰にでもはっきりと分かります。 その様は、例えば目覚めたときに、ぐっすりと眠れたのか、それとも眠りが浅かったのかが直ちに分かるようなものです。 また、それは、例えば食事を終えたときに、料理の味と量について完璧に満足できたのか、それとも満腹感はあるものの食べ足りない心地がするかが直ちに分かることと同様です。 この場合、前者は料理のすべてを美味しく、かつ丁度良い量でいただけた証拠であり、後者は料理のどれかかあるいは全部についてどこか不満が残るものであったことを示しているのです。 したがって、ある行為を為したことが善かったのかどうかを、誰かに聞いて確かめたりする必要はありません。 なぜならば、それは自分の胸に手を当てて振り返りさえすれば誰にでもはっきりと分かる(筈の)ことであるからです。 そして、何にせよ予め結果を気にしないで行為して、その結果が本当に善かったと思えるのであるならば、すなわち結果オーライは、最高に善い行為の結果であると考えてよいのです。

ところで、ある人々は、何かを行為しようとするとき後悔しないためのいわば予防線として、それがうまくいった場合のことだけでなく裏目に出た場合のことも考えておくべきであると思うかも知れません。 そして、その上で最良の選択を行うべきであると考えることでしょう。 しかしながら実際には、誰が予め何をどのように考えようとも、結果はそれとは違ったものになります。 なぜならば、人々(衆生)のそのような考えは元々虚妄であるからです。 その錯綜の様は、例えば錯覚によって曲がって見える直線を、如何にして真っ直ぐに補正するかをあれこれ考えることに似て、意味のない空しい行為だと言わざるを得ないのです。 つまり、この錯覚図形の場合、曲がって見えるという事実自体が元々虚妄なる認識であり、それを理性的に補償することは本来的に(生理的に)できないことであるからです。 したがって、人が「これは錯覚である」ということを前もって(知識として)知っていたとしても、それは単に頭の中だけの情報に過ぎず、直線が曲がって見えるという錯覚の事実は相変わらず突き付けられることになります。 そして、もしそれが錯覚であることを(予め)知らなかったとしたら、その真実が水平・垂直な直線のみであるということを人がそのままの状況において信じることはほとんど不可能であると言ってよいでしょう。 それと同様に、人々(衆生)が知識として何を知っていたとしても、勿論何も知らなかった場合も、世間において知覚される一切について、すべてが誤って感受されてしまうという世の真実から人々(衆生)が脱れる術はありません。(本論から外れる続きは補足説明(3)へ

このようなことから、そのようなあらゆる場合についてあれこれと(哲学的に)思いつめた結果、何も行為できなくなってしまう人も出てくることでしょう。 つまり、何もしないことが一番善い行為であるのだと、頑迷に決め込む人も出てくるに違いありません。 しかしながら、何もしないことが悪い行為である場合があります。 なぜなら、(それをこころに気づいていて)何もしないのは、やさしくない行為である場合があるからです。 本当は容易にできることなのに、敢えて何もしないことは悪い行為である場合があるからです。 その一方で、何の役にも立たないだろうと思えても、敢えて自らそれを行うことが結果的に善き行為を生む場合もあります。 例え相手に誤解されるとしても、真実に相手を思いやって為され、善き結果を生じる善き行為もあるからです。 そしてまた、例え相手に誤解されるとしても、そのことを覚悟の上で、真実に相手を思いやって、敢えて何もしないことが善き行為となる場合もあるのです。 ただし、それらそれぞれの場合場合における最良の結論を、理性的判断の結論として予め導き出したり、人類が事前に熟慮して得られるところのあらゆる哲学的見解の帰結や何らかの教義にもとづく固定的な規範行為、およびその応用として答えを導き出すことはできないのです。 なぜならば、そのように予め何かを想定して為された思考行為の結論が、目の前で起こる一大事に対する周到に用意された結論として完全にあてはまることはあり得ないからです。

[それゆえに]
それゆえに、もし人が何においてもすべからく後悔の無い行為を為したいと思うのであるならば、常日頃から自分自身を信頼して「平等」「信」「徳行」について正しく精励すべきです。 そして、そのような正しい精励の究極として、何においても一切後悔することがない善き行為が本当に実在するということを他ならぬその人が信じなければなりません。 同時に、そのような一切後悔することのない善き行為を、究極の境地において(勿論自分自身を含めて)人は誰でも行為することができるのだということを(こころに)信じなければならないのです。 そのように信じる究極において、人は覚りの境地の何たるかを身を以て知り、理解し、かつてそのように信じたこと自体がまさに善き行為であったのだと諒解するに違いないからです。


[補足説明]
覚りの境地に至った人は、一切後悔しない行為のみを為します。 また、善知識は、(それとは意識せずに)時として誰かに対して一切後悔しない行為を為す人です。


[補足説明(2)]
行為について参究する方法の一つとして、基本的公案(「どうしてもいけなければどうするか」)に取り組むことをお勧めします。

[補足説明(3)]
あなたが、それを信じようが信じまいが、例えば直線が曲がって見える錯覚図形について本当のことをずばり教えてくれる人は、きっと次のように言うことでしょう。

 「それ、ぜんぶまっすぐだよ」

そして何が善き行為かについても、本当のことをずばり教えてくれる人がいます。 その人は、それゆえに善知識と呼ばれます。