【声聞などいない】

世に、声聞・縁覚の弟子などはいません。 なぜならば、自ら発心を起こしたこれらの人々は、すでに菩薩の境地にあるからです。 ただ、本人は自らの境地が菩薩の境地であることを自覚していません。 本人自身は、自らが菩薩の境地にあることを信じきれずにいるからです。 それは、疑惑のなせる業です。 そのことについて、法華経(妙法蓮華経)では、方便品第二の最後の段において次のように述べています。

*** 法華経方便品第二(和訳経典)から引用

{前を略}

 諸仏が世に出られる事は、遥かに遠くして遇う事は難しい。 たとい世に出られたとしても、この教えを説かれるという事がまた難しい。 無量無数劫を経ても、この教えを聞く事は難しい。 よくこの教えを聴く者達もまた得がたい。 例えばすべての人々が愛し楽しみ、天人や人間の珍重する優曇華(ウドゥン.バラ)の花が、長い間にたった一度だけ咲き出る様なものである。 
教えを聞いて歓喜し、一言でもそれを語るなら、それだけで既に一切の三世の仏を供養した事になる。 この様な人が甚だまれであること、優曇華の花以上である。 御前達、疑ってはならぬ。 私は教えの王であるから、普く諸々の人々に告げる。 「ただ一なる立場のみによって、諸々の菩薩を教化して、声聞の弟子などはいない」と。 御前達、舎利弗と声聞と菩薩とは、正に知れ、この優れた教えは諸仏の秘要である事を。 五濁の悪世には、ただ諸々の欲にのみ執着する者があって、これらの者達はついに仏道を求めない。 未来の世の悪人は、仏が一なる立場を説くのを聞いても、迷って信受する事をせず、教えを破って悪しき世界に堕ちるであろう。 懺悔して清浄となり、仏道を願い求める者があったらこの様な人々の為に、広く一なる立場を讃えよう。 舎利弗よ、諸仏の教えは、正にこの様であり、万億の方便によって、相手に応じて教えを説くのだと知れ。 それを習学しない者にとってはこれを悟る事は出来ないが、御前達は既に諸々の仏、世間の師達が相手に応じて説く方便の事を知っている。 もはや、諸々の疑惑なく、心に大歓喜を生じ、自ら正に仏となるであろうと知れ。

*** 引用おわり


[補足説明]
歓喜とは、発心によって呼び覚まされる感動であり、大歓喜とは法の句を聞いたときに起こる特殊な感動のことです。

[補足説明(2)]
こんなウィット問題があります。 「日という字を10個書いて、それらに一本の棒線を付け加えて別の漢字を作りなさい」という問題です。 すなわち、

 日 日 日 日 日 日 日 日 日 日 

を、

 田 目 ........

のようにしていくという問題です。 この問題において、最後の2つはなかなか答えを見つけるのが難しいと思います。 秀才と奇才とを分ける瞬間であるからです。 ちょっと極端な例ですが、声聞・縁覚の次は、菩薩の境地ではなく、一足飛びであるということを言いたかったのです。

 → 問題の答え