【発心】

覚りの境地に至ることを本当に願い求めるようになる真実のきっかけを、発心と名づける。

発心は、何かを学んだことで生じるものではなく、誰かに教え諭された結果生じるものでもない。 それは、けしかけられて生じるものでもなく、覚りの境地に至ることを願うことではなく、覚りの境地に至ろうと(何か壮絶なる)決意をすることでもなく、(ブッダを含めた)誰かに憧れた結果生じるものでもない。 発心は、外的要因とは関係がないものであり、かと言って内的要因に後押しされたものでもない。 それは、自らの因縁によって生じた覚りに向かおうとする本当の気持ちに他ならない。

すなわち、発心とは、そのことをきっかけにしてそれ以前に覚りの境地を目指して行ってきた種々さまざまな行為について、その根本的な勘違いに気づくその心のことである。 しかも、気づくとは言っても、発心はいわゆる気づきではない。 なぜならば、発心は気づいたその瞬間に何らかの心理的理解を生じるものではなく、その人が覚りの境地に至った後に過去のできごとを振り返って「あれこそが発心であった」と後づけで理解するものであるからである。

人が発心することは稀有なることである。 しかしながら、発心は確かにあることで決して虚妄なるものではない。

通常、発心はその人にとっての(第一の)善知識によってもたらされる。 つまり、人は、善知識、すなわち化身(世に出現する一瞬の化身仏)の放つ「法の句」(=善知識と名づく)を聞いて、真実に覚りを目指す心を起こすからである。

具体的には、次のことが起こる。 因縁によって遭遇する(第一の)善知識は、善き人々との語らいを縁として最初の発心を起こす。 その発心は内的なものであって本人に意識されないものであるが、実に気高く、美しく、輝かしいものである。 そして、その(第一の)善知識が発した最初の発心を眼のあたりにして、こころある人はその気高さに心打たれ、自分の道の歩みあやまち(勘違い)に気づかされるのである。 そうして、いわば二次的・連鎖的についに発心を起こすに至る。

これが発心の全貌である。 したがって、発心は自力で生じるものではなく、他力で生じるものでもなく、自力でも他力でもないもので生じるものでもなく、自力と他力との両方で生じるものでもないと知られるのである。


[補足説明]
世間において、「魔がさしたのだ」と言われることがある。 この言い方を借りるならば、発心とは「仏がさした」ということである。

[補足説明(2)]
菩薩とは、発心した人のことである。

[補足説明(3)]
発心は聡明で冷静な精神状態においてのみ起こることではなく、散乱した精神状態においてさえ現れるものである。 酒を飲み、酔っぱらった精神状態においてさえ発心を起こす人があるからである。

[補足説明(4)]
一度発心を起こした人は、それ以後は真の意味で気をつけるようになる。 そして、そのよう気をつけている人が、(第二の)善知識に逢い、本当の「法の句(仏智)」を聞いてそれを正しく理解したならば、かれは直ちに覚りの境地へと至る。 このとき、かれがそれを正しく理解できるかどうかは、一大事因縁によっていることである。 そして、一大事因縁によって正しく覚りの境地に至った覚者は、その後(第三の)正しく気をつける行為のみを為すことになる。 これを〈諸仏の誓願〉と名づけ、この誓願に生きる人が覚れる人(ブッダあるいは阿羅漢)に他ならない。