【熱望】

熱望とは、法(ダルマ)を探し求める熱き心のことを言う。 それは、覚りを得たいという直なる望みではなく、ブッダにまみえその声を聞きたいという願望でもない。 熱望とは、自らがあらゆる手立てを講じて得ることができた仏教的知見や仏教的経験のその先に、それらを含め人が思念できるところのあらゆるものすべてを超越する本当の法(ダルマ)があるであろうことを信じ、その本当の法(ダルマ)を知りたいと願う熱き心を言うのである。 人は、それを達成したとき、それまで自らがあらゆる手立てを講じて得たと思い込んでいた仏教的知見や仏教的経験などが、法(ダルマ)でも何でもない虚妄であったと気づくことになる。

法(ダルマ)は、善知識によってもたらされるが、ただ漫然とした生活を送っていても法の句を聞くことはできないであろう。 仮に法の句を聞くことがあったとしても、漫然と生活を送っている者がそれをそれだと理解することはとてもできない。 しかしながら、覚りの境地に至ることを目指す心構え正しき人がよく熱望するならば、縁を得て善知識がかれの前に現れ、法の句を聞くことができるであろうことは間違いない。 そして、法の句を聞き終わってのち、聞き知ったその法の句を自らのものにしようと心から望むならば、かれは本当の意味で法(ダルマ)を知る人となり、智慧を得て目覚めた人となり、無我となり、望み無き生活に入って、諸仏の誓願に生きる人となるのである。 かれは、恐れ無き人であり、苦悩無き人であり、慈悲喜捨を自ら体現する人なのであり、まさしく覚りの境地に至ったのであると知ることになる。

ところで、正しい熱望は決して人に修行をけしかけるものではない。 なんとなれば、熱望は人をしてあらゆる迷妄から目覚めさせる心の正しい推進力であり、決してさらなる虚妄に追い立てるものではないからである。 すなわち、熱望は、人をして何ものにも駆り立てられない境地にいざなうものに他ならないからである。 つまり、熱望とは、その始まりにおいても、その途中においても、その終着点においても、こころを安穏ならしめる真実の熱き心なのである。 したがって、ある人が口では覚りの境地に向かう熱望があると言いながら、こころの中では言いしれぬ何かに追い立てられていたり、何ものかを得ようと駆り立てられていたり、あるいは特定の行為をすることが習慣化したりしているのであるならば、それは正しい熱望では無いのだと知らなければならぬ。 けだし、正しい熱望とは、覚りの境地に至ることに関係することであろうが、そうでなかろうが、あらゆるものごとに対して新鮮な気持ちで対峙しようとする態度を支える根底のものであり、少なくともそのことについて何ら苦悩すること無しに行為することを保証する動機の礎であるからである。 したがって、正しい熱望にもとづいた仏道の実践においては、苦や嫌悪や怠惰や固執を生じることはあり得ないのである。

ところで、覚りの境地を目指すいかなる熱意も、そのままではそれが正しい熱望に変化することはない。 なぜならば、正しい熱望は発心にもとづいて生じるものであると知られるからである。 つまり、熱意は借り物に過ぎないが、熱望は自分でも意識していない自分の本当の気持ちに属するものである。 それゆえに、熱望は発心によってのみ呼び覚まされるのである。

なお、人によっては、熱望の基本部分を(過去において、そうとは知らずに)確立している場合があり得る。 すなわち、すでに正しい熱望を起こしていながら、自分ではそれを熱意だと誤解している人が存在するからである。 このような人は、自ら正しい発心を確立したその時のことを、(こころに)振り返って想い出すべきである。 それは、観(慈悲観,平等観)によって達成されるであろう。

こころある人は、真実を知ろうとする熱望によって真実を知り明らめ、まさしく真実を体現する人となれ。