【暴力の渦中】

世の真実を知らず、怒りにまかせて暴力を振るう人は、干上がりつつある浅瀬に取り残されて互いに水を奪いあっている魚のようだと言われます。 この場合、魚たちが為すべきことは、水の豊かな場所に速やか移動することなのですが、互いに水を奪い合い、自分自身を見失い、いわば暴力の渦中にいる彼らにはそのことが分からないのであると言ってよいでしょう。 かれらは、浅瀬に取り残される以前から自らの大きさと力とを誇り、自分よりも小さく、それゆえに浅瀬と水豊かな場所とをつねに自由に行き来していて浅瀬から脱する道を知る小さな魚達の存在を軽んじて、その動きの意味を理解せず、ここ(=窮地)に至って浅瀬と水豊かな場所とを行き来する移動の道をついに見いだすことがなく、その一生を苦悶のうちに終えてしまうのだと知られます。

それと同様に、世間にあって、世俗に浴し、我執(我ありという思い)と愛執(我がものという思い)とにとらわれていて、自らを誇り、他人を貶め、驕りの心あり、怒りにまかせて振る舞い、慳みゆえに争いの中に否応なく引き込まれて、実に謂われ無き暴力を受け、しかし自らも暴力を振るい、そのようにしてまさに暴力の渦中にいる人は、自分よりも弱い人々の心の内を理解せず、その言葉を聞かず、ましてその言葉を恕(じょ)すことなく、それを「それ」と教えてくれる人を見いだす「よすが」を欠き、それゆえにそれを「それ」と知ることがなく、知らぬ間に老いと病気と事故とがかれを次第に蝕み、ついに死がかれを害うに至るのであると(知る人には)知られます。

しかしながら、ここに人があって、聡明であり、世の喧騒を見てその過誤を知り、もしもことの重大さとその愚かさに自ら気づくならば、誰に諭されずともかれは怒りにまかせて振る舞うことを止め、たとえ小さかろうとも自らの悪をとどめ、世間において感受する煩いや歓喜(=苦楽のよすが)の対象へのこだわりを捨て去り、世の真実を知ろうと熱望して、よく気をつけて世間をわたり、暴力にまつわるあらゆるとらわれを離れ、自分よりもすぐれた人だけでなく自分よりも劣った人の言葉をも恕(じょ)して、それによって浅瀬(=暴力の渦中)を脱し、善き人々が住む徳豊かな場所へと適宜に移動することを得、死ぬよりも前に出会うべき善き友と確かに出会って善き語らいを為し、その語らいの中にときとして現れ出る真実の教え(=法の句)を聞き及び、理解して、速やかに覚りの境地に至ることでしょう。

明知の人は、人々(衆生)はこのようにして暴力の渦中を脱れ、このようにしてついに不滅の安穏(=ニルヴァーナ)へと至るのであると知って、よく気をつけて世間を遍歴すべきであると言えるのです。