【争うことが無い】

人は、互いに立場を大きく異にするとき争うことがありません。 そのとき、互いに我慢し合って争わないのではありません。 そのとき、人が争わないのは、互いに争いのよすがが無いゆえのことです。 つまり、最初から争う必要が無いから争わないのです。


[大人と子供]
大人と子供は、体つきだけでなく趣味、趣向、思い、欲求などすべてにおいて大きく異なっているために、互いに争うことがありません。 子供達が大好きで、大事にしている玩具や絵本、アクセサリーなどを大人が横取りしてまで欲しがることはありません。 子供達が、3度のご飯よりも大好きなプラモデル作りや公園での遊びを大人が子供を差し置いて好むことはありません。 大人にとって、それらはむしろ邪魔なものであり、煩わしい作業でさえあるからです。

しかしながら、だからといって大人達は子供らしい玩具や絵本、アクセサリー、プラモデル作り、子供同士の遊びなどが無価値であると言うことはありません。 大人達は、それらがもう自分にとって邪魔以外の何ものでもないからといって、それらを無視し、敢えて世の中から一掃し、子供達に与えないようにするなどということはありません。 なぜならば、大人達はそれらが子供達にとっては生き甲斐そのものであることを考えるまでもなく知っているからです。 大人達は、それらが子供達の命であることをよく知っているからです。 それゆえに、大人達はそれらを子供達から取りあげてしまうことは無いのです。 それどころか、大人達は子供達を喜ばせようと思って、子供らしい玩具や絵本、アクセサリー、プラモデル、子供同士の遊びの方法などを常に新しく創造し、提供しようとさえします。 このように、互いに立場を大きく異にするとき、互いに争うことは無く、むしろ創造的、建設的関係がつくられるのです。

大人達は、かつて自分が子供であったことを懐かしむことはあっても、再び子供に戻りたいとは思わないものです。 大人達は、自分が子供達よりも「すぐれているとも、劣っているとも、等しいとも思わない」のです。 したがって、大人達は、例えば子供達とゲームに興じたとき、負けたとしても怒ることは無いし、勿論争うこともありません。 そして、大人達は、自分がかつてそうであったように、今の子供達も大いに遊び、大いに学び、そして自分を越えるような立派な大人になって欲しいと心から願っています。

[争いは無益]
大人は、子供と争っても何の意味もないことを知っています。 なぜならば、争うことによって、その子供が大人に成長してくれる訳ではないからです。 それどころか、そのような殺伐とした環境で育った子供は、大人にならずにずっと子供のままでいたいと思うようになってしまうかも知れません。 「大人などずるい」。 「大人の世界は汚い」。 そのように、(後ろ向きに)思い込んでしまうかも知れません。 そのような危惧があることを確かに知って、こころある大人は決して子供と争ったりはしないのです。 その一方で、大人が介入することなく、子供どうしで何事かについて争ったとしても、そのことによってその中の誰かが大人になることはないでしょう。 なぜならば、子供が大人になるのは、子供どうしの善い関係の中で一人ずつそうなっていくものであるからです。

[精励・精進]
それゆえに、覚りの境地を目指す人は、誰とも争わないように自ら精励し精進すべきです。 自分の行為を、後になって自分自身が後悔しないためにも、他の人と争う心を捨て去るべきです。 ただし、争わないために自分の気持ちを抑圧してはなりません。 なぜならば、抑圧は一時しのぎに過ぎず、後で手痛いしっぺ返しがあるからです。 したがって、争う気持ちを抑圧するのではなく、最初から争う気持ちが起きないことを目指すべきです。 人が聡明で、よく熟慮するならば、争いの種など本当は何も無く、争うべき相手も実は存在せず、それらがあるように思えたとしてもそれは虚妄に過ぎないことに(見解としてではなく後付けで如実に)気づくに違いありません。 そして、争うということは、善き行為ではあり得ないのだということに気づくべきです。 後悔の無い争いなど、ただの一つも無いことに気づくべきです。 例え、いかなる理由をつけたとしても、争うことを本当の意味で正当化することはできないことに思い至るべきです。 そして、このことは自分の胸に手を当てて考えれば、誰しもが本当は分かることである筈です。

[究極]
覚りの境地に至った人は、人々(衆生)が生きるそれとは大きく異なった心的世界に住しています。 それゆえに、覚りの境地に至った人は、人々(衆生)と争うことはあり得ません。 それどころか、覚りの境地に至った人は、争いの素因が完全に滅しているために(他の人々の)争いに出くわすことさえ無くなります。 すなわち、自らが争いに巻き込まれることが無いだけでなく、争いの場面を見かけることさえ無くなってしまいます。 世間的には不可思議ですが、そのようになるのです。 つまり、覚りの境地に至った人が誰とも争うことが無いのは、争うことを我慢し自分を抑えているということではなく、そもそも争いの因縁自体が無くなってしまうということなのです。

[誓願]
ところで、覚りの境地に至った人は、未だ覚りの境地に至っていない人々が自分と同じ境地に速やかに至って欲しいと常に願い、念じています。 その様は、例えばまっとうな大人が、我が子に限らずすべての子供達を常に暖かく見守り、速やかに立派な大人になって欲しいと願い、そうなることを念じていることに似ています。