【我が身にひき較べて】

真実のやさしさを知る人は、人々(衆生)の苦を正しく思いやることができます。 真実のやさしさを知る人は、いかなる人をも我が身にひき較べて思うゆえに、それを達成するのです。 真実のやさしさを知る人は、平等心を正しく知る人であるゆえに、それを達成するのです。


[老い]
誰であれ、老いを防ぎ止めることはできません。 人類が作為して得たあらゆる知見を残らず集めても、老いを防ぎ止めることはできないのです。 老いを恐れる人も、老いに無頓着の人も、誰であれ人はいずれ老いて醜くなってしまいます。 もし、老いが醜く感じられないのであれば、老いという言葉(名称:nama)が現れることもなく、老いることを苦だと思うことも無いでしょう。 しかしながら、老いは確かに人の目に醜く映るものであり、嫌悪を呼び起こすものなのです。

一方で、人は他の人が老衰したのを見ると、自分もいずれそのようになる身でありながらそのことを棚に上げ、面倒に思い、恥じ、嫌だななどと思うのです。 自分自身も、いずれは老いる身であり、老いを防ぎ逃れる方法はまったく無いにもかかわらず、その他ならぬ自分が他の老いた人を見て面倒に思い、恥じ、嫌だななどと思うのです。

真実のやさしさを求める人は、先ずこの事実から目をそらしてはならないでしょう。 人類が作為した、あらゆる知見、(哲学的)見解、知識、見識、その他すべてのものを総動員しても、老いた人を見て醜く感じ、嫌悪を呼び起こすという厳然たる事実が無くなることはないでしょう。 このことは、如何なる思い込みによっても無くなることはないでしょう。 このことは、いかなる努力によっても無くなることはないでしょう。 そしてまた、このことは無視することもできないでしょう。 なぜならば、人は誰でもいつかは老いるということを誤魔化しようもなく知っているからです。 老いが、いつかは自分の身に降りかかってくるのだという避けることの出来ない事実を、誤魔化しようもなく知っているからです。

ところで、覚りの境地に至った人はこのような偏った思いが無いゆえに、どのように老いた人を見ても面倒に思うことが無く、恥じることが無く、嫌だなと思うこともありません。 覚りの境地に至った人は、平等心を正しく知るゆえに、どのように老いた人を見ても面倒に思うことが無く、恥じることが無く、嫌だなと思うことも無いのです。 覚りの境地に至った人は、他の人をして正しく我が身にひき較べて思うがゆえに、どのように老いた人を見ても面倒に思うことが無く、恥じることが無く、嫌だなと思うことも無いのです。 そして、覚りの境地に至った人は、一切の努力無しにこれらの嫌悪感から解放されています。 我が身にひき較べて思うことは、究極においてこのような効能をもたらすのです。

[生まれ、病]
誰だって、好きこのんで辛い境遇に生まれたいと思う人はいないでしょう。 好きこのんで、病気になりたいと思う人はいないでしょう。 しかしながら、人はどうしようもなく生まれつき、どうしようもなく病気になります。 それゆえに、これらのこと、すなわち生まれ(身分)や病は、老いと同様にそれを正しく我が身にひき較べることが可能なものです。 したがって、これらは老いと同様に、覚りの境地に至ることによって正しく乗り越えることができるものなのです。


[補足説明]
釈尊の仏伝に、四門出遊という言い伝えがあります。 釈尊は、老人を見て何を考えたのでしょうか? 釈尊は、なぜ出家までして何かを極めようと思ったのでしょうか? 釈尊は、我が身にひき較べて、次のように考えたに違いありません。 

「老人は醜く見える。 しかし、誰でもいつかは老人になるのだ。 それは、自分も免れないことなのだ。」
「ところが、私は、老人を彼が老人であるということだけで嫌っている。」
「だとすれば、他の人が老人を嫌うのも無理からぬことだろう。」
「そうであるゆえに、私が老人になったとき、他の人は私が老人であるということだけで嫌うに違いない。」
「しかしながら、私は自分が老人になっても、老人であるということだけで人に嫌われたくは無いものだ。」
「しかし、それを防ぐことはできないであろう。」
「我が身にひき較べて考えれば、今の私と同じように、他の人も老いた私を見て醜いと感じるであろうから。」
「ならば、せめて私自身は老人を嫌わずに居られないものだろうか。」
「なぜなら、私は、老人を老人というだけで無条件に嫌う自分でありたくは無いからだ。」
「我が身にひき較べて、そのような自分ではありたく無いからだ。」
「老人を無条件に嫌うということは、結局は将来の自分自身を無条件に嫌うことと変わりないのだから。」
「我が身にひき較べて、私は、誰かが老人であるということだけで彼を無条件に嫌ったりしない人でありたい。」
「しかし、ただこのまま城で過ごしていても、そのような自分になることは恐らく無いであろう。」
「やさしい人になるためには、(例えば)出家して道を究めなければならないであろう。」
「なりたい自分になるためには、(例えば)出家して道を究めなければならないであろう。」
「なりたい自分になるために、私は(いつかは)出家しなければならないであろう。」
「人のためではなく、自分自身のために、私は(いつかは)出家しなければならないであろう。」

四門出遊の言い伝えで大事なことは、それによって釈尊が出家するに至ったという歴史的事実ではなく、釈尊がこのときに正しく我が身にひき較べることを得て、おぼろげながらも自分がどのような人でありたいかという究極の姿を垣間見たであろうということなのです。 すなわち、すぐれた人になろうとするのではなく、(そのような)やさしい人になろうと決心したであろうことが大事なことなのです。