【リラックス】

眠れぬ人にとって夜は長く、眠りについたとしてもその眠りは浅く、そしてそのような浅い眠りでは目覚めた後もすっきりとすることは無いでしょう。 一方、心身共に健康で心にわだかまりが無い人は、常に寝つきがよく、ぐっすりと眠ることができ、そして目覚めた後は実にすっきりしていることでしょう。 そのような人は、自分がどのように眠っていたかということを一々知らずとも、自分が間違いなくぐっすりと眠っていたことを目覚めた後で自ら理解することでしょう。 それどころか、そのような人にとっては、ぐっすりと眠れることなど当たり前すぎて、そのこと自体からして頭をよぎることさえないことでしょう。

それと同様に、世間を離れ、解脱して、こころに(名称と形態(nama-rupa)という)障碍が無く、ときほごされている人(覚者)は、常にリラックスしています。 なぜならば、覚りの境地に至った人は、リラックスした状態にのみ安住していて、如何なる環境要因によっても心身が緊張するということは無いからです。 そして、そのことは、ぐっすりと眠れた人が目覚めた時に自分がぐっすりと眠ったことを自ら知るように、覚りの境地に至った人は、自分が常にリラックスしていることを折に触れて理解することになるのです。

ところで、覚りの境地に至った人は、例えば予期しない突然の物音や喧騒を耳にしたとしても、それに驚くことはありません。 その一方で、かの人は、世間における妙なる音楽や歌声などを聞いたとしても、胸震わせて感動したり、癒されたり、心をときめかせたりすることも無いのです。 なぜならば、覚りの境地に至った人は、鈍感ということではなく、聴覚に限らず六識で認識する一切について、そこに特定の悪意や善意や妙意を感じることが無くなっているのであり、それは一切についての(煩いを生じるような)識別作用が消滅しているゆえのことです。 すなわち、真実のリラックスと呼ぶべきニルヴァーナは、この識別作用の消滅によってもたらされる心身の状態認識に他なりません。

したがって、覚りの境地に至る前の人が、この真実のリラックスについて完全に知ることは無く、まして実感することはあり得ません。 しかしながら、この真実のリラックスが覚りの境地に至った人の常なる状態(ステータス)である以上、覚りの境地に至ることを目指す人は、この真実のリラックスを自らに体現することを熱望すべきです。

言ってみれば、未だ覚りの境地に至っていない人(衆生)は、一切について常に何かしらの緊張状態にあります。 そして、この緊張状態を喚起する(好ましからざる)識別作用を生じるのは、人々(衆生)が心のどこかで人間不信に陥っているからに他なりません。

したがって、それとは逆に、人がある人と互いに核心に迫るような何某かの話を取り交わし、後になって振り返ったとき、その時間を一切緊張せずにリラックスして過ごすことが出来たと言えるならば、少なくともその人にとってかの人はこころから信頼すべき善き友であると知られ、またそのように知るべきです。

そして、一切緊張することなく本当にリラックスして話をすることができる相手がこの世に確かに存在することを知った人は、他ならぬ自分が他の誰かにとってそのようなリラックスできる存在となることを(自らのこころに問うて)願い、さらには誰に対してもそのように振る舞おうと決心すべきです。 それを為し得たとき、その人は、本当のリラックスが何であるかについて正しく理解することでしょう。

さて、リラックスするための方法論とは、一言で言えば「余計なことを考えないこと」に尽きます。

すなわち、リラックスは、余計なことを考えないで相手をこころから信頼し、それと同時に自分自身(の本性)を信頼してコミュニケーションすることによってもたらされるからです。

そして、そのようなリラックスの究極と言うべきニルヴァーナは、法(ダルマ)についてのあらゆる疑惑を払拭し、一切について余計なことを考えないという無住なる無分別智を自ら見い出したとき、確かに達成され、しかもそれ以後はその状態に安住することになるのです。

もし人が、真実のリラックス(ニルヴァーナ)を求めるのであるならば、何が余計で何が大事なことであるかについて自ら参究し、それを正しく理解しなければなりません。 そして、それを達成する唯一の方法が平等観を為すことであり、その具体的方法の一つが基本的公案(「どうしてもいけなければどうするか」)に取り組むことなのです。