【忠告】

如何なる人であっても、その人に向けて他の人から言葉で為された忠告を、それが当たっていようが当たっていまいが言葉によって(悪意を以て)言い返すことが無いならば、その人は誠実な人であると誰からも認められます。

また、如何なる人であっても、他の人が言葉で主張することを耳にして、言葉の形を以て自らに生じた疑い(疑心)を自ら注意深く選択した善き言葉を用いてその疑義を正すならば、その人は真理を追究する人だと誰からも認められます。

そしてまた、如何なる人であっても、言葉の形を以て現れた心の動揺を、自ら御し、自ら制する人は、既に覚りの境地に至った人であるか、あるいは覚りの境地に至ることが約束されている人に違いありません。

ところで、その表現がいかにもぎこちないとしても、人が他の人に向けて発する言葉にはその人の想いのすべてが込められています。 すなわち、人が他の人に向けて言葉を発するとき、本心を隠し立てすることは実は出来ないのです。 それゆえに、如何なる人が発した言葉であっても、自分に向けて発せられた言葉には、その人が自分のことをどのように思っているかということが余すことなく語り尽くされているのだと考えなければなりません。

そして、人が誠実と真理の探究という正しい態度で事に臨み、(予め)自らのこころの覆いを捨て去って、自分に向けて発せられた言葉をよく気をつけて聞き分けるならば、それらの言葉のすべてが自分に対するその人のやさしさの表現であることに気づくことでしょう。 それらの言葉を、よく気をつけて聞き分けるならば、それらの言葉には実は如何なる悪意も含まれていないことに気づくことでしょう。

そのようにして、(予め)人が自らのこころの覆いを捨て去って、自分に向けて発せられた言葉をよく気をつけて聞き分けているうちに、ついには善知識が発する「法の句」を聞くことができることでしょう。 そのとき、その人は、驚くべきことに言葉によって為されるすべての人のすべての行為には如何なる悪意も含まれていないことを、(今は信じられないでしょうが)真実に知ることになるでしょう。