【信】

人が一切の疑惑を超えてこころに信じるべきことは、次のことであると言ってよいでしょう。

○ 人は実はやさしい

たといある人がどんなに冷たく、意地悪に見えたとしても、かれは実はやさしいのだということを信じるべきであると真実を知る人は語るのです。 なんとなれば、人(=衆生)は誰しも、自分ならざるもの(名称と形態(nama-rupa))に突き動かされている存在であり、本来の自分(本性)を出せないばかりか、善かれと思って愚かな選択をしてしまうのであるからです。 そして、誰であろうとも、同じ状況におかれたならば、かれと同じ行動を(善かれと思って)選択してしまうに違いないと言えるのです。 したがって、ある人がどんなに冷たく、意地悪に見えたとしても、決してその人の本質がそのようであるのでは無く、もしその人の立場に立たされたならば、自分も(善かれと思って)その人と同じ行動を選択してしまうであろうということに思いを馳せなければならないのです。

すなわち、

 □ この世には誰一人として冷たい人などいない
 □ この世には誰一人として意地悪な人などいない

のである。 すべての人が実はそのようであると根底において人を信じることが、<信>の本質であると言ってよいでしょう。 そして、それと同時に、自分自身も真実のやさしさを理解できる存在であるということを、自ら信じることが<信>の(もう一つの)本質であると言ってよいのです。 つまり、人を信じることと自らを信じることとは同時に確立すべきことであり、どちらか一方だけ立てるという訳にはいかないのです。 なぜならば、外的な信と内的な信は、実は本来一つの信の二つの側面であるのだと知られるからです。 そして、まさしくそのように<信>を理解できたときが真実の信を掴んだ瞬間であり、かれは同時に平等心の何たるかを掴んだのであると認めてよいでしょう。

世間においてどんなに楽しそうに見える人でも、かれのこころの奥深くには悲哀があり、苦が同時進行しているのだと知らねばなりません。 ある人が、いかにも傲慢で、いかにも自分勝手で、人の気も知らずに本人だけが楽しんでいるように見えたとしても、まさしくそのように見える人であったとしても、かれ自身こころの根底では苦しんでいるのだと知らなければならないのです。 たとい、本人に悲しみや苦しみの自覚が無くとも、やはりかれはこころの根底では苦しんでいるのだと知らねばなりません。 かれは根元的無知(無明)ゆえに、その末路において必ず苦に追い込まれてしまうことになるからです。 つまり、かれは、他の人から羨ましがられるような人ではなく、他の人がむしろ思いやってあげるべき人なのだと言えるのです。 いかにも傲慢に見える数多の振る舞いもかれの本意では無く、かれは自分ならざる衝動に突き動かされているのだと見なくてはなりません。 そして、こころある人は、そのような人をこそ他の誰よりもこころに信じて、真実に思いやって、慈しみ、味方になってあげるべきであると言えるのです。

たとえ、ある人が自分のことを嫌っているとしか思えなくても、実際にはその人はあなたのことを狙い打ちして嫌っているわけではありません。 その証拠に、かれはあなただけでなく、特定の条件が整ってさえいれば誰をも嫌う人であるからです。 逆に、そのような特定の条件が整うことさえなければ、かれは誰とでも仲良く付き合うことでしょう。 もし、かれがあなたと同じ部署でなかったならば...、年齢がもっと離れていれば...、同性でなかったならば...、あるいは異性でなかったならば...、同じ目標を掲げていなかったならば...、あなたがかれに嫌われることはおそらく無いでしょう。 同時に、もしそうであれば、あなたもその人を嫌うことは無いでしょう。 それとは逆に、今現在はとても親しくしている人であっても、もしその人があなたと同じ部署であったならば...、年齢が近かったならば...、同性であったならば...、あるいは異性であったならば...、同じ目標を掲げていたとしたら...、あなたがかれに嫌われないとも限らないのです。 あるいは、あなたがかれを嫌わないとも限らないのです。 つまり、あなたが現実に嫌っているかれが座っているその(心理上の)ポジションに、別の誰かが座るならば、今度はその別の人をあなたは嫌うに違いありません。 このように、好き嫌いなどの感情は、自分ならざる事由で生起している形式論理的な世界に過ぎず、特定の誰かとあなたというユニークな人間関係において恒常的に顕れるものでは無いと知られるのです。 それゆえに、このことわりを理解する人は、他の誰かと接するときには予めその人を嫌うべきでは無いし、好きになれないとしても、根底においてはその人のまことを信じるべきであると言えるのです。

人がこのあり得べき<信>を自ら確立したとき、上記のことがまさしくそうなのだと知ることになるでしょう。 そしてそのとき、人は好き嫌いなどの感情を超えた、人間関係における本当の安心を知ることになるでしょう。